「マタイによる福音書」第五章は「天上の垂訓」として知られる部分です。
「こころの貧しいひとたちは、さいわいである。
天国はかれらのものである。
悲しんでいるひとたちは、さいわいである。
かれらは慰められるであろう。
柔和なひとたちは、さいわいである。
かれらは地を受け継ぐであろう。
義に飢えかわいているひとたちは、さいわいである。
かれらは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深いひとたちは、さいわいである。
かれらはあわれみを受けるであろう。
心きよいひとたちは、さいわいである。
かれらは神を見るであろう。
平和をつくりだすひとたちは、さいわいである。
かれらは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきたひとたちは、さいわいである。
天国はかれらのものである。」
一般的にはこれらの言葉は、神によって生きられる世界のことを表現したものだということになっていますが、本来、そうではなく、私は、今日理解されているのとは、まったく反対の意味だったと妄想します。
貧しい人とは、互いに対等なものどうしから満ち足らされることを求め、自分を超えて自分を生きるものから満ち足らされていない人のこと。
自身を超えて自身を生きるものからではなく、互いに対等なものどうしから満ち足らされることこそ、この地上に天国を創造することなのです。
悲しんでいる人とは、互いに対等なものどうしのために自身を創造し、在らせる人のこと。
自身を超えて自身を生きるものから創造され、在らされるものは、互いに対等なものに対する配慮をすることなく、自身をより生きようとするので、結果的に自身と対等なひとたちをおびただしく損なうことになり、また自分自身をも損なうことになるのです。
柔和な人とは、自分を超えて自分を生きるものから生きられることで、自身と対等なものを損なうことから解き放たれている人のこと。
自身と対等なものを損なうことから解き放たれることこそ、大地を受け継ぐものとなることなのです。
義に渇く人とは、自身を超えて自身を生きるもののためにではなく、互いに対等なもののために生きようとする人のこと。
互いに対等なもののために生きようとすることこそが、互いからより生き合われることになるからです。
あわれみ深い人とは、自分を超えて自分を生きるものから損なわれている人を助け出そうとしている人のこと。
心は、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われるべきために使われるべきなのです。
心きよい人とは、自分を超えて自分を生きるものから、あらかじめ息づかれていない人のこと。
自分を超えて自分を生きるものを知っているひとは、自分を超えて自分を生きるものから、あらかじめ息づかれることはないのです。
平和をつくり出す人とは、互いに対等なものどうしが互いを損ない合わない世界をつくる人。
互いに対等なものどうしが互いを損ない合わないことこそ、神の子の業といってもいいことです。
それは、自分を超えて自分を生きる、自分であるもの(すなわち神存在)に代わって、自分を超えて自分を生きる、自分であるもの(神存在)が、本来生きるべきものを生きることです。
義のために迫害されてきた人とは、互いに対等なものどうしのために、自分を超えて自分を生きるものと戦ってきた人のこと。
互いに対等なものどうしが生き合われることを求めれば求めるほど、自分を超えて自分を生きる、自分であるものから、おびただし迫害を受けることになります。
しかし、まさに、自分を超えて自分を生きる、自分であるものから、おびただしく迫害を受けていることこそが、互いに対等なものどうしのために戦っていることの証なのです。
自身を超えて自身を生きるものから生きられるのではなく、互いに対等なものどうしが生き合う世界。
それこそが、イエスが語りかける「天国」の意味です。
ここに明確に、神の奴隷から解き放たれ、互いが生き合われる世界を創り出そうという意志が示されているのだと、私は見ます。
また、ここで使われる「天国」とは、互いに対等なものが生き合われるとともに、じつは「神」自身もまた生きられるべき場所として示されているのです。
これを読まれているあなたは、また分からなくなってきたと思われたかもしれません。
このブログで、今回はじめて述べさせていただく事柄ですので。
神もまた生きられるべき、とするこの観点こそが、第二ステージの中心テーマとなるものです。
先を急ぎすぎず、聖書をさらに読み解いていきたいと思います。