新しきイエス 第五回 奇跡とは、解き放たれることである。 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 念のために、またおことわりしておきますが、妄想のつづきです。とくに後半の部分は、聖書のどこをさがしてもこういうことは書いてはありませんので、ご了解ください。間違っても、これを本当に聖書に書かれているものだとは捉えないでください。あくまで、「心の目で見ている」聖書ですので、そこのところはどうかよろしく。



 さて、「マタイによる福音書」第四章の後半、ガリラヤの海べを歩いていたときに、後の弟子となるペテロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエスと同行することになるところが書かれていますが、彼らは誰もみな、それまでの仕事や家族をなげうって、イエスについてゆきます。


 ──ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。

    彼らは漁師であった。

    イエスは彼らに言われた、

    「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

    すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。


 ──ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、

    父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。

    そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。


 あたかも催眠術にでもかかった人のようではありませんか。

 それまでの仕事を放り出して、また父親をも置いて、突然、やってきた人間についていってしまうなんていうことは。


 これは、「奇跡」の一貫として捉えると分かりやすいと思います。


 ちょうどこのすぐ後に、「奇跡」のことが書かれています。


 ──イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、議会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、

    民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。


 さて「奇跡」ですが、それは本当に奇跡なのでしょうか。

 人々のあらゆる病を癒す、そんな力を、イエスはもっていたのでしょうか。


 人々のあらゆる病を癒したとする「奇跡」と、後の弟子となる者たちがそれまでの仕事や家族を置いて突然現れた人についていってしまうというのとは同じ文脈で考えることができます。


 この両者の事柄に共通するものがあります。

 それは、とらわれから解き放つということです。

 からだの病もとらわれからの解放か、と思われるかもしれませんが、病は気からという部分があるわけで、心の持ちようが、からだの病を気にならなくさせるということはあるのではないでしょうか。

 だから、じっさいは病はほんとうには治ってはいない。

 ただ、病によって沈んでいた(それこそ、病んでいた)心は癒されて、病を苦にしなくなるかもしれません。

 その状態をさして、癒された、というのではないでしょうか。


 とらわれとは、なにか。

 それは、なんども繰り返し述べてきた、「自分を超えて自分を生きる、自分であるもの」です。


 すなわち、神として、あなたをあらかじめ強くあるものに息づくものであり、高く聡くあるものに導きはぐくみ、限られなくとらわれなくあるものに在らせ、深く豊かくあるものに満ち足らせるとともに、堅固にあなたを貴くあるものにかばい、一に重くあるものに支え持ち、あまねくあなたをおし拡げ、味わう一方、

悪魔として、あなたをあなたと対等なものどうしから引き離し、

あなたの強くあるものを自身の強くあるものとして生きることと引き換えに、あなたを弱くあるものにならしめ、

あなたの聡くあるものを自身の聡くあるものとして生きることと引き換えに、あなたを愚かなものならしめ、

あなたのとらわれなくあるものを自身のとらわれなくあるものとして生きることと引き換えに、あなたをとらわれたものならしめ、

あなたの豊かくあるものを自身の豊かくあるものとして生きることと引き換えに、あなたを貧しくあるものならしめ、

あなたの貴くあるものを自身の貴くあるものとして生きることと引き換えに、あなたを賤しくあるものならしめ、

あなたの重くあるものを自身の重くあるものとして生きることと引き換えに、あなたを軽くあるものならしめ、

あなたの広くあるものを自身の広くあるものとして生きることと引き換えに、あなたを狭くあるものならしめている存在です。


 イエスがなしたこととは、まさにこの逆のことです。


 「あなたは、あなたを超えてあなたをあらかじめ息づくものから息づかれる必要はない。

 それはあなたをより「強くあるもの」に息づかせることはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「強くあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしのあらかじめ「強くあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたをあらかじめ息づくものから解き放たれた、あなたの元からの「強くあるもの」を生きることができるのである。


 あなたは、あなたを超えてあなたを高く導きはぐくむものから導かれ、はぐくまれる必要はない。

 それはあなたをより「聡くあるもの」に導きはぐくむことはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「聡くあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしの高く「聡くあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたを高く導きはぐくむものから解き放たれた、あなたの元からの「聡くあるもの」を生きることができるのである。



 あなたは、あなたを超えてあなたを限られなく創造し在らせるものから創造され、在らされる必要はない。

 それはあなたをより「とらわれなくあるもの」に創造し在らせることはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「とらわれなくあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしの限られなく「とらわれなくあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたを限られなく創造し在らせるものから解き放たれた、あなたの元からの「とらわれなくあるもの」を生きることができるのである。



 あなたは、あなたを超えてあなたを深く満ち足らせるものから満ち足らされる必要はない。

 それはあなたをより「豊かくあるもの」に満ち足らせることはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「豊かくあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしの深く「豊かくあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたを深く満ち足らせるものから解き放たれた、あなたの元からの「豊かくあるもの」を生きることができるのである。



 あなたは、あなたを超えてあなたを堅くかばうものから庇われる必要はない。

 それはあなたをより「貴くあるもの」にかばうことはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「貴くあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしの堅く「貴くあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたを堅くかばうものから解き放たれた、あなたの元からの「貴くあるもの」を生きることができるのである。



 あなたは、あなたを超えてあなたを一に支え持つものから支え持たれる必要はない。

 それはあなたをより「重くあるもの」に支え持つことはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「重くあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしの一に「重くあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたを一に支え持つものから解き放たれた、あなたの元からの「重くあるもの」を生きることができるのである。



 あなたは、あなたを超えてあなたをあまねくおし拡げ、味わうものからおし拡げられ、味わわれる必要はない。

 それはあなたをより「広くあるもの」におし拡げ、味わうことはあろうが、それと引き換えに、あなたをあなたの同胞から引き離し、あなたの元からの「広くあるもの」を損わずにはおかないからである。

 あなたは、互いに対等なものどうしのあまねく「広くあるもの」を生きることで、あなたを超えてあなたをあまねくおし拡げ、味わうものから解き放たれた、あなたの元からの「広くあるもの」を生きることができるのである。」



 次回は、「天上の垂訓」として有名な箇所について述べていきたいと思います。