イエスなる「あなた」は、荒野で、自身を超えて自身を生きる、自分であるものから試みられる前に、とある川のほとりで、バプテスマのヨハネという人物と会い、洗礼を受けたことが四福音書に共通に書かれています。
バプテスマのヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた」と声高に叫び、主なる神による審判が近づいているから、急いで悔い改めなければならないと説き、悔い改めの印として人々に洗礼を施していました。
そこへ、イエスが洗礼を受けるべく、バプテスマのヨハネの前に来たのです。
イエスに洗礼を施そうとしたバプテスマのヨハネは、自分こそイエスから洗礼を受けなければならない、とイエスに向かって言うと、イエスは、「このように。すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである。」と答え、バプテスマのヨハネから洗礼を授けられたのでした。
このできごとの意味を私は、次にように読もうと思います。
イエスとは、乗り越えられたバプテスマのヨハネである、と。
乗り越えられたバプテスマのヨハネとはなにか。
それには、バプテスマのヨハネとは誰であるかを述べるのがいいと思います。
バプテスマのヨハネとは、「悔い改めよ」「主なる神の審判が近づいている」「急いで悔い改めなければならない」という言説です。
一言でいうなら、終末論です。
世界は滅びる。しかし、悔い改めるものは、天国に行くであろう。悔い改めることができなかったものは、地獄の審判が待っている、という脅迫的信仰です。
それが意味を持つのは、互いがバラバラに生きるものどうしが、互いを超えて互いを生きる、自分であるものから生きられることを求める人々においてです。
しかし、イエスはそういう終末論は乗り越えられるべきである、と悟っていました。
それは、自分を超えて自分を生きるものから理不尽な差別を受けてきた、イエスだからこそ感じていたことでした。
自分を超えて自分を生きるものから生きられるゆえに、互いが互いから引き離されている現実を。
四福音書に書かれることのなかったイエスの言葉とは、このようなものではなかったでしょうか。
「世界は滅びない。悔い改める必要もない。天国も地獄もない。なぜなら、いまこの場所こそが天国なのであり、そのことを理解しないことこそが地獄なのである。
すなわち、自分を超えて自分を生きるものから生きられるゆえに、互いが互いから引き離されていることこそがすでに地獄を生きることを審判されていることであり、互いに対等なものどうしが互いに生きられあうことこそが、神に代わって、自ら天国をこの地上に創造することなのである。」
洗礼とは、まず洗礼をする人間の生き方を受け入れることであり、乗り越えられた洗礼とは、洗礼をする人間が逆に洗礼を授けた相手を受け入れる、ということです。
すなわち、イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けることで、逆にバプテスマのヨハネを自身を乗り越えたものに洗礼したのだと言えるでしょう。