ある特定の宗教宗派に属するのではなく、自身の魂の発展にとって必要だと感じられる宗教宗派の要素をさまざまに、自分の魂の修養の中に取り入れることで、自身の魂の発展を目指す人たちのことを、ユニヴァーサリストといいます。
ユニヴァーサリストとは、直訳すれば世界宗教を目指す人たちということです。
よって、彼らには特定の教義というものは存在しないし、はっきり組織といえるものもまたありません。
あるのは、世界宗教というものを生きる、魂の共同体です。
そういう彼らは、自分にとって必要だと思えたら、たとえば、それがキリスト教であろうと仏教であろうと厭いません。
結果、さまざまな宗教宗派の要素の寄せ集めになります。
ただ、それは、外部の人間の見方というもので、当人たちにとって、さまざまな宗教宗派が混在するのは、必然なのです。
そもそも、魂の発展にとって、どの宗教宗派に属しても同じはずであり、宗教宗派の違いによって、互いの魂の発展を妨げるようなことはあってはならないのです。
もともと宗教とは魂の発展のためにあって、キリスト教とか仏教とかイスラム教とか儒教などという区別を設けることが間違っている、ということです。
考えてみれば、キリスト教の開祖イエスは行動しただけであって、彼本人がキリスト教を作ったわけではありません。
また、仏教の開祖ブッダもまた行動しただけであって、彼が仏教そのものを作ったわけではないのです。
みな、弟子たちが作り上げたものなのです。
宗教宗派を超えて、人たちが魂の発展のために、互いに連帯する、というのが彼らの理想です。
それは、宗教宗派の違いによる対立を超えた先の世界を描いたものでしょう。
ただ、それは、強く求めれば、かならず反発を招くことをよくわきまえなくてはなりません。
現に、特定の宗教宗派から、彼らのあらゆる宗教宗派を受容しようとすることに、非難の声があがっていることは無視することはできません。
よって、宗教宗派を超えた、世界宗教を目指すなら、最初は受け入れられずとも、地道な努力を重ねて、少しずつ受け入れられるようにしてゆくしかないでしょう。
彼らの運動の本質。それは、与えられたものではなく、自ら求めることで、自身の魂の発展を目指してゆく運動と、私は、考えます。
ただ、それは自身のために宗教を利用するということであり、宗教が本来持っている、教えに対する謙虚な態度を損なうことは否めないでしょう。そこが、彼らが批判される最大の点だと思われますが、またまさにそここそ、実存主義的なものを有しているとも考えられるところです。
「あなたは、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたをあらかじめ息づく、あなたのあらかじめなる血であるものから、
あなたの「強くあるもの」に息づかれ、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたを高く導きはぐくむ、あなたの高き胸であるものから、
あなたの「聡くあるもの」に導きはぐくまれ、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたを限られなく創造し、在らせるものから、
あなたの「とらわれなくあるもの」に創造され、在らされ、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたを深く満ち足らせる、あなたの深き内腑であるものから、
あなたの「豊かくあるもの」に満ち足らされ、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたを堅くかばう、あなたの堅き皮膚であるものから、
あなたの「貴くあるもの」にかばわれ、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたを一に支え持つ、あなたの一なる骨であるものから、
あなたの「重くあるもの」に支え持たれ、
あなたが自ら選び取った、
あなたを超えてあなたをあまねくおし拡げる、あなたのあまねき舌であるものから、
あなたの「広くあるもの」におし拡げられるのである。」