心だけが価値があり、それ以外のものは無価値だと説いたのが、17世紀のイングランドで誕生した、クェーカーまたは友会徒として知られる宗教団体です。
彼らは、自身をカトリックでもなければプロテスタントでもない、本来のキリストの教会を復活させるものとして捉え、カトリックやプロテスタントは本来のものから外れた教えであると語りました。
本来の教えとはなにか。
それは、純粋に心の教えです。
心以外のものは、いっさい無価値であるという、教えです。
つまり、心以外のものが、心にさまざまな悪影響を及ぼしてしまっていると説くのです。
心に基づくことこそが、われわれの真の生だということです。
クェーカーもまた、シェーカーと同様に、会合で体を震わせ振動させて、聖書に現れる現象である「振動」を守ることを論じるところから、つけられたものです。
この「振動」とはなにか。よくわかりませんが、てんかんに似たものかもしれません。
なにか異常な心の状態というものを作り出すことで、シャーマンのような、霊的といったらいいような、振動を自身のからだに意図的に引き起こすのでしょう。
心が、からだの固い殻を打ち破ろうとして、激しくからだを打ち振るわせる。
そんなイメージを思い浮かべますが、じっさい、見たことがないので、わかりません。
心以外のものは、いっさい無価値、というところで、私は、イギリスの経験主義者バークリを思い浮かべます。
すべては心だけであって、手に触れるものは心が作り出したものである、とする唯心論です。
ただ、バークリの場合は、もの自体は存在していないのです。
いっさいは、心が作り出したものだからです。
クェーカーの場合は、物はそれ自体として存在している。
ただ、それは心にとって邪悪な存在として存在している。
そこがバークリの唯心論との違いです。
このことを例によって、詩に託します。
「あなたは、
ただ、あなたを超えてあなたをあらかじめ息づく、あなたのあらかじめなる血であるものから、
あらかじめ息づかされる、あなたのからだを通してのみ、
あなたのあらかじめ「強くあるもの」を生き、
ただ、あなたを超えてあなたを高く導き、はぐくむ、あなたの高き胸であるものから、
高く導かれ、はぐくまれる、あなたの耳を通してのみ、
あなたの高く「聡くあるもの」を生き、
ただ、あなたを超えてあなたを限られなく創造し、在らせる、あなたの限られなき腕であるものから、
限られなく創造され、在らされる、あなたの脚を通してのみ、
あなたの限られなく「とらわれなくあるもの」を生き、
ただ、あなたを超えてあなたを深く満ち足らせる、あなたの深き内腑であるものから、
深く満ち足らされる、あなたの肩を通してのみ、
あなたの深く「豊かくあるもの」を生き、
ただ、あなたを超えてあなたを堅くかばう、あなたの堅き皮膚であるものから、
堅くかばわれる、あなたの背を通してのみ、
あなたの堅く「貴くあるもの」を生き、
ただ、あなたを超えてあなたを一に支え持つ、あなたの一なる骨であるものから、
一に支え持たれる、あなたの肉身を通してのみ、
あなたの一に「重くあるもの」を生き、
ただ、あなたを超えてあなたをあまねくおし拡げ、味わう、あなたのあまねき舌であるものから、
あまねくおし拡げられ、味わわれる、あなたの目を通してのみ、
あなたのあまねく「広くあるもの」を生きるのである。」