多かれ少なかれ、宗教は、限られた現世のからだを厭い、永遠のからだを求めるものだということが言えると思います。
ただ、宗教によって、また宗派によって、現世のからだに対する厭い方、永遠のからだへの求め方の強さに違いがあります。
その違いは、その宗教、宗派を作った人間のパーソナリティに大きく依拠しているのだと思います。
シェーカー教徒は、現在はほとんど存在していないといわれていまが、彼らが残した家具で、いまなお彼らの名は人々の中に刻まれています。
プロテスタントの一派である彼らは、1774 年にイギリスからアメリカにわたった9人を初めとしていて、その指導者はアン・リーという女性でした。
彼らは性を罪悪視し、男女のいっさいの接触を禁じ、結婚を認めませんでした。
彼らの名のシェーカーとは、集会で震えるようなダンスをしていたことから、外の人間から、「震える人たち」という意味で使われたのが由来です。
性を罪悪視し、男女のいっさいの接触を禁じ、結婚を認めない。
それは、まさに現世の生に対する反逆でしょう。
彼らが本当にその教義を推し進めたとしたら、地上から人類がいなくなってしまうことになります。
彼らの部外者から見ると、まったく滑稽この上ないことのように思えます。
しかし、彼らは真剣にそれを信じ、日々の生活を送っていたわけです。
でも、考えてみてください。
自分がどのように生きようと、それは自分の勝手です。
他の人間がどうのこうのということではありません。
自分がそれでいいと思えば、それでいいはずです。
ただ、それを他の人に押し付けてはいけません。
そういう性格のものだということです。
一生、男女の接触を持たず、結婚をしないことが、自分にとって幸いと感じれば、それを追い求めていってもいいでしょう。
私には、そんなことはできませんが。
自分にとっていいと思うこと。それは傍の人間がどうのこうのいう問題ではありません。
さて、私は、彼らの信仰を次のような詩に表したいと思います。
これまで、私は、さまざまな哲学や宗教を詩と称して書いてきたわけですが、一般的な見方から言えば、詩ではありません。
しかし、私の考えでは、一般的に詩と見られているものは、本来の詩ではないと、考えています。
この考えかたじたい、一般的ではない(笑い)。
本来の詩とは、人類が始まって以来続いているものです。
それは、魂の言葉、言霊なのです。
古代の人が持っていた、それなりの論理であるもの、それが詩なのです。
詩とは、そういうもののはずなのです。本来的な意味からいって。
それは、ただ眺めたり鑑賞したりするものではなく、われわれの心を動かす力であるものなのです。
「あなたは、
あなたのからだから離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたのからだをあらかじめ息づく、あらかじめなる血であるものから、
あなたの、より「強くあるもの」にあらかじめ息づかれ、
あなたの耳から離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたの耳を高く導き、はぐくむ、高き胸であるものから、
あなたの、より「聡くあるもの」に高く導き、はぐくまれ、
あなたの脚から離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたの脚を限られなく創造し、在らせる、限られなき腕であるものから、
あなたの、より「とらわれなくあるもの」に限られなく創造し、在らされ、
あなたの肩から離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたの肩を深く満ち足らせる、深き内腑であるものから、
あなたの、より「豊かくあるもの」に深く満ち足らされ、
あなたの背から離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたの背を堅くかばう、堅き皮膚であるものから、
あなたの、より「貴くあるもの」に堅くかばわれ、
あなたの肉身から離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたの肉身を一に支え持つ、一なる骨であるものから、
あなたの、より「重くあるもの」に一に支え持たれ、
あなたの目から離れれば離れるほど、
あなたを超えてあなたの目をあまねくおし拡げ、味わう、あまねき舌であるものから、
あなたの、より「広くあるもの」にあまねくおし拡げられ、味わわれるのである。」
※毎日更新は難しいなどと、つい、へこたれ口を利いてしまいました(削除済み)が、がんばって更新を続けていきますので、よろしく応援をお願いします。