ここから、実存哲学についてしばらく論じていきたいと思います。
じつをいえば、これまで天地創造からマルクスにいたるまでの哲学、宗教について語ってきたのは、この実存哲学を論じるためなのです。
実存哲学が抱えている問題。それは誰でもない自分ということです。
誰でもない自分とは、神から創造された誰でもあるものとは異なります。
それは神と対等な存在です。
それまで哲学、宗教で語られてきた自分というのは、誰でもある自分でした。
誰でもある自分とは、互いに異なることのないものどうし、ということです。
互いに異なるところのないものどうしにおいて、互いを超えた存在というものは存在しません。
互いを超えた存在とは、自分たちを超えた存在。すなわち、神、または神のような存在ということになります。
神、または神のような存在とは、また、自身と対等なものを持たない存在です。
これまで哲学や宗教は、互いを超えることのない、対等な存在としての自分を扱ってきました。
しかし、互いに異なるところがない自分を生きることに、しだいに限界を抱くようになったのです。
本当の自分とはなにか。それが問われるようになってきた、ということです。
それは、個々の人間が、互いに異なるところがないものを超えて、自身と対等なものを持たない自分を持とうとすることです。
つまり、あなたは、互いに異なるところがない、互いに対等なものどうしを離れて、自身と対等なものを持たない、固有のあなたを生き始めたのです。
こうして、誰でもない、自身と対等なものを持たない、固有の自分を生きる哲学が産声を上げるのです。
その最初の人間として上げられるのが、デンマークの哲学者、ゼーレン・キェルケゴールです。
彼は、神と自分との関係を見たとき、それが他の誰とも異なる。彼でなければならない関係を生きるべきであることを感じました。
つまり、彼と神との関係は、他の誰にも当てはめることはできないものでなくてはならない、ということです。
彼と神との関係は、まさに彼と神とだけの関係なのです。
そこになにものも入り込む余地はありません。
そういう意味で、この関係は、恋愛に似ています。
それは、関係を結んでいる両者の間だけに成立しているからです。
だから、それが客観的にどうだ、と言うことは、まったく意味をなさない。
それは、誰にも理解できないもの。また理解を求めないものです。
つまり主観的なことが重要な関係です。
それは、自己満足であり、自己妄想の世界といってもいいでしょう。
自分にとって、それがいい、と感じているのなら、それでいい。
逆に、他の人が、こっちの方がいい、と勧められても、それが自分にとっていいのでなければ、まったくよくはないのです。
これは、ある意味、自身と対等なものを持たない存在、神の本性を生きることです。
自身と対等なものを持たない神の本性を生きることで、あなたは、互いに異なるところのない自分を超えて、自身と対等なものを持たない、固有の自分を生きるのです。
互いに対等な自分を超え出ることで、あなたは、なにものからも束縛されずに、他の人に対して自由に振る舞うことができるようになる。また、どのように振る舞わなくてもよくなる。
あなたは、人とかかわるが、それは、互いに異なるところのない、互いに対等なものどうしを超えた場所からかかわるのです。
しかし、自身と対等なものを持たない、固有の自分を生きるとはどういうことでしょうか。
それは、互いに異なるものを持たない、互いに対等なものどうしであるものに対して、神のごとく生きる、ということです。
あなたは、自分にとっていいと思うことを、なんの躊躇することなく、行うことができる。それによって、あなたの隣人がどんなに損なわれようともかまわない、ということです。
世界の創造主である神は、自分が望むように世界を創造し、望むように世界を破壊するのです。
創造された世界のことなど、いちいち考慮などしないのです。
あなたが生きたいように生きる。それは善であり、悪であるはずはないのです。
(古代インドには、じっさい、このようなことを説く哲学があったようです。自著『新しきブッダ』より「疑惑」の章をご参照ください。)
キェルケゴールのことを述べたつもりが、なんだからニーチェのことを述べているような気がしてきました。
それもそのはずで、これこそが、実存哲学の本質なのです。
実存哲学は、誰でもない固有の自己を発見させてくれましたが、同時に、互いに対等なものどうしを超えた、超越的自己を生み出したのです。
やがて訪れた20世紀は、この超越的自己が限りなく拡大してゆく、大量殺戮の世紀でした。
あなたは、知らず知らずのうちに、誰かを傷つけていませんか。
もし、あなたが知らないところで、誰かを傷つけているとしたら、それは、あなたが、その誰かを超えて、自身と対等なものを持たない、固有のあなた自身を生きたからです。
このことを詩に表したいと思います。
「あなたは、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたをあらかじめ息づくものを通して、
互いに異なるところのないからだを離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたのからだであるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのないからだを離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたのからだであるものを否む、
互いに異なるところのない数多のからだを損ない、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたを高く導き、はぐくむものを通して、
互いに異なるところのない耳を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの耳であるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのない耳を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの耳であるものを否む、
互いに異なるところのない数多の耳を損ない、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたを限られなく創造し、在らせるものを通して、
互いに異なるところのない脚を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの脚であるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのない脚を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの脚であるものを否む、
互いに異なるところのない数多の脚を損ない、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたを深く満ち足らせるものを通して、
互いに異なるところのない肩を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの肩であるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのない肩を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの肩であるものを否む、
互いに異なるところのない数多の肩を損ない、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたを堅くかばうものを通して、
互いに異なるところのない背を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの背であるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのない背を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの背であるものを否む、
互いに異なるところのない数多の背を損ない、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたを一に支え持つものを通して、
互いに異なるところのない肉身を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの肉身であるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのない肉身を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの肉身であるものを否む、
互いに異なるところのない数多の肉身を損ない、
自身と対等なものを持たない、あなたを超えてあなたをあまねくおし拡げ、味わうものを通して、
互いに異なるところのない目を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの目であるものを生きることと引き換えに、
互いに異なるところのない目を離れて、自身と対等なものを持たない、
あなたの目であるものを否む、
互いに異なるところのない数多の目を損なっているのである。」