世界の創造者とは貴方のことである、というこの地点から、今日のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖典である、旧約聖書の創世記について解き明かしていきたいと思います。
現代人において、宗教とはどんなものでしょうか。神を信じる立場と信じない立場で、まったく正反対の見方がされています。その一番要のところは、人間は駄目な存在なのだ、だから人間を超えた神に自身をゆだね、正しく生きなくてはならない、ということ。
これはまったく二つの解釈を現代を生きるわれわれにもたらします。
自分を駄目な人間だというのは、神を信じる人にとって、慢心にならず謙虚に生きるための必要不可欠な認識となります。じっさい、神を信じている人は、神を信じない人に対して、このことを踏まえて言うのです。
一方、神を信じない人にとっては、人間を貶める悪しき言葉として響きます。ニーチェは、この点で、宗教を批判するのです。
では、宗教はほんとうに人間を駄目な存在としているのでしょうか。そのことを旧約聖書の物語から考えてみます。
神が創った最初の人は、神によって守られている森で暮らしています。それはまったく自我というものがなく、ただ神に仕えることを喜びとしています。しかし、これは果たして神にとって好ましいことなのでしょうか。
私は、否だったと見ます。神は限りなく貴方を生きる存在でなくてはなりません。ただ神に仕えるだけの存在をよしとするなら、もう神は神自身の存在意義を失うでしょう。
このことを避けるために、神は人間を試したとしたら、どうでしょう。
あの善悪を知る木を、神は人間に示したのでした。その木になる木の実を食べてはならない。食べると死ぬであろう、と。
しかし、人間は蛇にそそのかされて食べたのでしたね。この蛇はサタンの化身といわれている。
だが、私はこの見方に反して、次のように言いたいと思います。
この蛇は神の分身である。また神こそ、この蛇をそそのかしたのである。
そうして、禁断の木の実を食べた人間は楽園を追放されることになった。
つまり、食べると死ぬ、ということの意味とは、楽園を出なければならなくなる、ということなのです。
私は、これを神からの自立の物語である、と解釈します。
人間は自分で自分のことを養わなくなった。このときから、人間は、神から与えられた奴隷的な存在から、自身の主人となった。つまり、自我を持ったのです。
そして、神は楽園から出た人間に、なおもかかわり続ける。
これは、神から自立した貴方を通して、より自身を限りなく生き始めたということでしょう。
さて、神を前提にして書いてきましたが、この神とは、世界の創造者である貴方のことです。
これは、貴方が、貴方自身を奴隷状態の自分から解き放つプロセスを表したものと考えることができるでしょう。
つまり、貴方は、奴隷状態の貴方の中に、善悪を知る木を植えることで、貴方自身を奴隷状態から解放しようと企てるのです。
楽園とは、天国のことではなく、むしろ地獄。それは自我がうしなわれた、ただ奉仕するだけの世界のことだと、私は考えます。
よく、人間の本質は、こうだ、とか、社会の現実は、こうだ、と真実を振り回している体の人がいます。これはみな、奴隷的な生に固執している態度のように思えてなりません。
自我の解放よりも、神から自我が奪われることを望んでいるのです。
これはとても逆説的な言い方になりますが、われわれは、自分たちを縛っている「真実主義」(科学主義とも称します)から解き放たれることで、なにが本当に真実であるかを知らなくてはなりません。
人間は駄目な存在なのではない。また偉い存在なのでもない。よりよく生きようとする存在なのだということを、宗教はしっかり気づき、語りかけるべきなのだと思います。
さらに、旧約聖書の中の物語について、述べていきます。