まず、天地創造神話を取り上げます。
古代の人は、世界がどうしてあるのか不思議でなりませんでした。もちろん、現代のわれわれもそれを思います。
そこで、世界は、われわれを超えた存在、すなわち神によって作られたのだと考えました。
これは、古代人なりの哲学的思考といっていいかもしれません。なにもソクラテスが哲学の創始者である必要はありません。世界のことを合理的に理解すること、それが哲学です。とにかくなにか説明がつくものでなければ、不安でしかたないでしょう。それは現代のわれわれもまたそうですようね。だから、さまざまな権威がわれわれの心の安定に寄与しているわけです。
そしてこれが宗教といわれるものの始まりです。世界を合理的に説明してくれるものが宗教でした。
世界は神によって作られた。われわれ人間もまた神が作った。
この神がわれわれの超自我として、われわれの自我を生きることになります。
神とは、世界の創造者として生きるわれわれ自身なのです。
われわれのからだを通して、神は生きることになる。
デカルト以後、神ではない、われわれの理性が世界を理解する主体となるようになりました。
近代的自我の時代になって、ユニークな思想家が現れます。
スウェーデンボリは、世界は神のからだである、と語りました。
これもある意味、合理的解釈に違いありません。ただそれがどれだけの人間を納得させるかどうかは別として。
私は、この思想家の思考を利用して、世界は貴方の自我の表現であると言おうと思います。
そして、神について語られた天地創造とは、貴方の自我の創造神話なのではないか、と考えるのです。
天地創造を貴方の自我創造とすることで、私は、貴方について(また私自身について)語りことが始められるのではないか。
ここから、私の貴方について(また私自身について)の思索が始まります。
天地創造の神とは誰でしょうか。結論はもう出ています。それは貴方です。
天地が神によって創造されたのなら、神以前には天地はなかったということになります。
よく考えてみてください。貴方がこの世界に生まれ出る以前、世界はあったでしょうか。むろん、貴方が生まれる前から世界はありました。問題は、貴方にとってなのです。貴方が生まれたのと同時に、貴方にとって世界が存在するようになったのです。これはつまり、貴方が世界を創造したのと同じようなことなのです。
じっさい、赤ん坊は世界の創造者です。世界の数多のものを名づけ、理解するというのは、世界を創造することなんです。むろん、やがて、赤ん坊は世界の創造者から陥落し、数多のものの一つになってしまうわけですが。
だが、それでも私は貴方はなお世界の創造者であると思う。
ただそれが貴方自身から見えなくなっただけです。
それは貴方を超えて貴方を生きる自我、貴方の超自我として存在しつづける。
その超自我なる貴方は、貴方自身に向って、常に、貴方が世界の主人公として生きることを語りかけているのです。
「からだをもてる貴方よ。
貴方は、自身を超えて自身を生きる、あらかじめなる光である私から、
貴方のあらかじめなる血として息づかされることを通して、
数多のからだであるものから分かたれた、貴方のからだであるものをあらかじめ生きるのである」と。