-1/5- アテルイとモレと河内国と田村麻呂、そして死への疑惑
.
アテルイとモレは、胆沢で降伏し、田村麻呂と都のそばの地まで連行され、河内国で散った。
そういうことになっている。
この事について、いまだに色々と疑問が浮かぶのは、私だけなのだろうか。
アテルイとモレが、降伏に至ったことと、その経緯は、残っている記録が少ないとは言え、説得性はあり、受け入れることができる・・・。
田村麻呂の、できるだけ血を流さずを良しとする戦略が功を奏し、二人以外のリーダー達が、朝廷に寄って行くなかで、孤立化は、進んだであろうこと。
戦闘での疲弊と、帰属した者たちの待遇を見て、二人も、そして仲間達も戦闘の意義は薄れ、その意欲が低下していったことも容易に想像が着く。
田村麻呂が、蝦夷の性質を良く識っていたであろうという点。
この点は、他の方々の推説でもある、田村一族の祖先が、蝦夷達の中にいた、一族とルーツが近い、あるいは同系だったのではないかという想いにも向かい、あれやこれやと妄想を掻き立てられるのだが。
もう少しその妄想に触れておくと、蝦夷の一部は、渡来系であり、大和から逃れてその地に至った一族もいたとか、その逆に田村一族は、かなり古い時代に蝦夷から帰属して都近くに来たのではないか・・・などという推論や憶測もある。
いずれにしてもアテルイとモレの民族的、あるいは個としてみての、戦士として誇りを損なうことなく、自発的な降伏という形に持っていった田村麻呂は、将にプラスして参謀としてのセンスが抜きん出ていた人物であったことを認めざるを得ない。
結果、二人の「降伏」という形で、第三次蝦夷討伐の幕は閉じた。
そしてここから「死」へと向かうに至る疑問が生まれて来るのだが。
まず第一に、二人は、なぜ都に同道することになったのだろうか。
田村麻呂の戦略を、想像することが、一番の手掛かりなのだろう。
今回は、ここまでいしたい。
胆沢の地を離れ、日高見川(北上川)を舟でくだり、かつて住まっていた地を遠望しつつ進む時、その胸中に去来した想いは、どんなものであったのだろうか。
途中から陸路を馬に跨り、隊列の中心となって、多賀城への街道を進む姿は、胸を張った姿で、未来への希望に満ちていたものであった、と信じたい。
.
.
.
つづく