-2/5- アテルイとモレと河内国と田村麻呂、そして死への疑惑
そもそも田村麻呂は、なぜ二人を連行したのだろう。
蝦夷の地の征服は、さらに北に向かう事になる。
その時、彼等のリーダーとしての資質を活かし、無駄な血を流さずさらなる北の蝦夷達を取り込ませる任を託そうとした。
その資質を充分に備えた人物だと判断した上で、都で、最新の文化的情報を提供しようとしたのだと考えるのが妥当だろう。
明治維新の留学生達に重ねて考えると、理解し易い。
だが、都に、連行して、その旨を説明して、朝廷が、あっさり「はいはい、そうですか、田村さんの言う通りにしましょう。」と同意するだろうか。
戦略を理解し同調してくれる朝廷の大物とパイプに、余程の自信があったのか。
いずれにせよ、事前の確認もなく行動に移したとは、考え難い。
だからこそ、田村麻呂程の策略、軍略に秀でた者が、万が一、自分の考えが通らない時のリスク対策を講じていない訳がないと考える方が、むしろ至って正常だ。
もし採用されなかった時、その時の策を、あなたならどうしますか。想像してみて欲しい。
結果、説明するまでもなく、田村麻呂の意見は通らず、それを回避する策も無く、二人は河内国で死の刑を課せられた。
と、歴史は語っているのだが。
当時、死刑廃止の流れは、大陸では、既に実施されていた。実際、次期天皇で廃止された。
直ぐそばまでやって来ていた流れに逆らって、死刑なのか・・・。
流刑でも良かったのではないか。
処刑地は、河内国のマキヤマ?
いまだにマキヤマ(植山、椙山、杜山)の地名がどこなかを特定するだけの記録は見つかっていない。
牧方市に二人のものと蝦夷の首塚があるが、ほんとに二人のものなの?
具体的な処刑方法は、どのようなものだったのだろうか・・・、記録はない。
斬首。
一説に鋸引きの刑だったのではないかというものもあるが、だいたい河内のような田舎に鋸なんてあったのか。
とまあ、次々と少なすぎる情報に対して、色々と疑問を投げかけたくなる。
今回は、この位にしておこう。
つづく