アテルイとモレと河内国と田村麻呂、そして死への疑惑 -5/X-
そもそも蝦夷とは、何者なのか。
それをテーマに、以前書いた。
その時は、「朝鮮半島か大陸からやって来た兵士」だろうという事を結論的に書いた。
もちろんその兵士達だけではない。
太古から住んで来た縄文の人々、南下して来た北方民族、その中には、現代のアイヌの祖先と血の繋がりのある人達も居たことだろう。もっと古くには、出雲や越、現在の新潟からやって来て戻れなかった(戻らなかった)鉄の民アラハバキもいた。狩猟採取の山の民も海の民も、獲物を追って北上し残留していた者達もいた。修行の行人や政治逃亡の人などなど、北に住む、税の徴収ができない、色々な人々の影の輪郭をもって蝦夷と総称して来たのだ。
だがそのなんな混沌とした多重の影から抜きん出て、強烈な光の当たった英雄が現れた。
巣伏の戦いで朝廷軍に、戦術戦略面で戦力の不利を跳ね返して戦闘に勝利し、アテルイの名が歴史に刻ざまれた。
このことで、蝦夷のイメージが兵士として概念化され、アテルイという名の響きも含むて、民族的な興味に向かったと想う。つまり蝦夷を、異民族、ネイティブな先住民族として観たいという潜在的欲求を少しの期待をもって探求したいという気持ちと、軍事力の圧倒的な差をもろともせずまつろわない気概に、日本人特有の判官びいきな観方も加わっている。
もっと大胆に言えば、日本人とは、弥生時代あたりから顕著に大陸や朝鮮半島からの渡来人を受け入れ、江戸、明治期には、北方先住民族や琉球民族を侵略し統合して、極東の小さな島国で混血してできあがってきた民族である。
DNA解析が、その混血民族意識を、もはや現実化してみせている。歴史的な面、人類、民族学的な面など科学的な事実は、さておいても、もしかしたら蝦夷は、先住日本人だったのではないだろうかという想いが、少なからずとも多くの日本人の内側で働いているように思える。
如何、つい道をそれて・・・長くなってきた。
地名の分布などを根拠として根強くある蝦夷イコールアイヌなどの北方民族説や縄文人説を是としないのは、やはり騎馬弓兵と、刀の形状にある。
騎馬民族は、草原の民であるのが一般的なのだが、東北地方は、森林地帯であって、騎馬の戦は、必ずしも適していない。それは、森を切り拓き、現代風に言う里山や牧草地を開墾しなければ成り立たない。
また人口の少なかった当時、そうそう大きな戦闘が、甲冑騎馬戦兵によって集団で、しかも高等な戦術を持って行われる必要性などなかった。
戦闘経験の豊富な兵が、馬を伴ってやって来て住み着いたと考える方が妥当だ。
また圧倒的に刀の威力が上回っていたことにも注目しなければならない。
刀を産み出すための材料の入手と、精緻な技術と、それらの技術者は、何処からやって来たのか。
馬にも同じことが言える。
脱線した
アテルイとモレは、途中に駐留していた兵と合流し胆沢に向かった。
その後の消息に関する推測は難しい。
また別の機会に書いてみたい。
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