エミ、芸術か、宣言 -15ページ目

エミ、芸術か、宣言

米澤慧美のブログです。




さいきんなんだか一歩前に出れない。
人との関係において。


前はもっとガツガツ出来た。興味ある人に興味があることをわかってもらえた。


なんか今は誰に対しても遠慮してしまう。
遠慮、というのは嘘かな?一歩引いちゃうというか。




前までは、自分の興味を満たすだけで満足だった。でも今は、感じ良く思われたい。
というのは、とても感じの良い雰囲気の人、というのをたくさん見てしまったからかも。



初対面で、こっちがガンガン警戒しまくってるのに、こっち側の緊張感を解くために向こうの胸をあえてパックリ開いてくれる人。好意的な親しみを持った話し方。



表面的な話ではない。感じの良さっていうのは、その人の生き方を物語っていて、滲み出る空気のようなもの。



あんな風に見ず知らずの他人にまで優しくなれたら、と思う。わたしは身内には結構優しいつもりだし。でも他人の緊張感を解くような優しさと強さは持ち合わせてない。




でもわたしが最初から感じ良かったら、もうそれってわたしじゃなくない!?って程、なんていうかキャラじゃないのよ。何しゃべっていいか全くわかんなくなるのよ。


自分守り過ぎてるよなーーー


あーーーでも美意識って難しい。どういう距離感とかスタンスが自分にとってステキで相手と楽しくなれるのか。



うーーーむ、早く一皮剥けたいなぁ。
でもきっとまだまだ先だなぁ。











村上龍の、「櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている」という本を今書店で一気に立ち読みしたのだが、めちゃめちゃ面白い!!というか、刺さる。
何かを感じずにはいられない。



今の若者について、村上龍が感じることを書いているのだけど、前提としてまず、今の若者に対して全然興味関心がない、今の若者は、物語の主人公にはなりえない、ということを提示した上で、





それは今の若者が全くもって「つまらない」からであり、(これは本から総合的に読み取ったわたしの表現だけど、)




つまらない理由は、若者の責任ではなく、社会とか時代とかそうゆう抗い難い大きな波にあり、それに対して心配はしない、哀れんでいるだけだ。的なことが書いてあり、




「そうそう!全くもってそうなの!
若者は、社会に対して怒りすら感じていない。
ただ諦め、死守し、口を閉ざし、じっと耐えているんだ。
まさにおっしゃる通り!」



というなんとも清々しい気持ちと、




村上龍に完全に見限られ、興味を失われ、物語の主人公になり得ない若者当人であるわたしは、



だからって一体どうしろっていうんだよ!!どうしようもないんだよ!
ってわたしが言ってること自体、村上龍からすれば退屈で哀れみの対象でしかないんだよ、このクソやろーが!!



っていうやり場のない怒りが湧いた。




しかも、もうそろそろわたしは、「若者」ですらなくなってくる。もう、目も当てられないような存在になっていく。




生活していくことが辛い、とか、未来が不安で悲しい、とか、そうゆうことは毎日のように感じるわけだけど、



その他大勢のつまらない若者と同様、わたしもこの現実に強度の怒りを感じることはあんまりなくて、やはり無意識に諦めている。



でもこんなにバッサリ哀れみの対象とか言われると、めちゃめちゃ腹立ってきて、腹立たせる村上龍、すげー!ってなった。







わたしが何か声高に叫んでも、所詮すべて陳腐で哀れむべき若者になる。
なぜなら私のスペックはこの時代によって産まれた時から決まってしまっているからで、わたしがつまらないのは、わたしの責任ではない。






しかしそれでも、わたしは何かを叫ばなければいけないのだと思う。
怒りが乏しくても、乏しいままのわたしを晒すしかない。
無気力なまま、無気力な身体で叫ぶしかない。
どんなにその思想が貧弱で、つまらなくても。
諦めた若者に指を差され嗤われても、大人に無視されても。





そんなことを思った。
























自分の外見の醜さと内面の無能さ、クズさに、嫌悪感しか湧かない、という中二病ぶり返したみたいな日々をすごしておりますが、





でも流れるように生きるしかないので、とにかく精神衛生をこれ以上崩さないように気をつける。




できることを少しづつ。





いつの間にかなくしていた、継続するための忍耐、というのを、この歳から取り戻す。






サイタマノラッパー1を観る。マイティの行く末を知り過ぎているせいで、なんか切なさが倍増。



クズな人間に生まれつくと、気づいたときには地獄生きの列車に乗っていて、下車駅がない。線路がどんなに枝分かれしていようとも、行き着く先はすべて地獄でしかない。そんな気持ちになる。




自分がどんな列車に乗れるのかは、実は二十歳くらいまでには、決まってしまっているんじゃないか、というようなことを最近思う。
つまり、わたしのようなボンクラが人生について考え始めたときには、時すでに遅し、なのでは、と。




ちょっと、まりこ監督のイエローキッドを思い出した。