村上龍の、「櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている」という本を今書店で一気に立ち読みしたのだが、めちゃめちゃ面白い!!というか、刺さる。
何かを感じずにはいられない。
今の若者について、村上龍が感じることを書いているのだけど、前提としてまず、今の若者に対して全然興味関心がない、今の若者は、物語の主人公にはなりえない、ということを提示した上で、
それは今の若者が全くもって「つまらない」からであり、(これは本から総合的に読み取ったわたしの表現だけど、)
つまらない理由は、若者の責任ではなく、社会とか時代とかそうゆう抗い難い大きな波にあり、それに対して心配はしない、哀れんでいるだけだ。的なことが書いてあり、
「そうそう!全くもってそうなの!
若者は、社会に対して怒りすら感じていない。
ただ諦め、死守し、口を閉ざし、じっと耐えているんだ。
まさにおっしゃる通り!」
というなんとも清々しい気持ちと、
村上龍に完全に見限られ、興味を失われ、物語の主人公になり得ない若者当人であるわたしは、
だからって一体どうしろっていうんだよ!!どうしようもないんだよ!
ってわたしが言ってること自体、村上龍からすれば退屈で哀れみの対象でしかないんだよ、このクソやろーが!!
っていうやり場のない怒りが湧いた。
しかも、もうそろそろわたしは、「若者」ですらなくなってくる。もう、目も当てられないような存在になっていく。
生活していくことが辛い、とか、未来が不安で悲しい、とか、そうゆうことは毎日のように感じるわけだけど、
その他大勢のつまらない若者と同様、わたしもこの現実に強度の怒りを感じることはあんまりなくて、やはり無意識に諦めている。
でもこんなにバッサリ哀れみの対象とか言われると、めちゃめちゃ腹立ってきて、腹立たせる村上龍、すげー!ってなった。
わたしが何か声高に叫んでも、所詮すべて陳腐で哀れむべき若者になる。
なぜなら私のスペックはこの時代によって産まれた時から決まってしまっているからで、わたしがつまらないのは、わたしの責任ではない。
しかしそれでも、わたしは何かを叫ばなければいけないのだと思う。
怒りが乏しくても、乏しいままのわたしを晒すしかない。
無気力なまま、無気力な身体で叫ぶしかない。
どんなにその思想が貧弱で、つまらなくても。
諦めた若者に指を差され嗤われても、大人に無視されても。
そんなことを思った。