ココロが忘れても、カラダが覚えている
カラダが忘れても、ココロが覚えている


ひとりでがんばりすぎないこと
つながっていること
まかせていいとリラックスすること
ゆだねていいと力を抜くこと
ないがしろにしていたものを、たいせつにすること
自分のからだをいつくしむこと


カラダとココロに同時にはたらきかけると、

最強になること


* * *


ロルフィングは、ひとりでがんばりすぎないことを教えてくれた。


ロルフィングは、くっついていたものを離すこと。しわくちゃになっているものを伸ばすこと。もとあった場所に、もとあったように、もとあった軸で、いちばん楽な姿に、正していくこと。
ロルフィングは、つながっていることをおもいだすこと。まかせていいとリラックスすること。ゆだねていいと力を抜くこと。
ロルフィングは、自分でないがしろにしていたものを、たいせつにしてもらうこと。
たいせつにしてもらって、たいせつにできるようになること。


ココロとカラダはつながっている。ココロの不調がカラダに出て、カラダの不調がココロにあらわれる。
ココロを先に癒しても、カラダを先に癒しても、癒しきれずにいるものは、同時にはたらきかければいいのだ。


からだにはハンドタッチで。心にはコトバで。心が忘れても、からだは忘れない。


* * *


胸いっぱい吸いこむことも、力いっぱい吐きだすこともできなくて、浅く小さい呼吸でつらくて、苦しかった。


「ふくらませようとするのではなくて、鎖骨のところで左右に開いていく感じ」 
と言われて


「ああ、外せばいいんだ」
と思ったら、呼吸が楽になった。


胸郭が広がらない。横隔膜が動かない。苦しい。それはどうして? 何に押されているから?


(この骨は開く!)


そう思ったとたん、狭くて苦しい胸の中が、すっきりと楽になった。
もちろん、鎖骨は外せない。外せないけど…… 外れた。


何を望むかと聞かれて、
「自分のエネルギーを自分で自由に使いたい」
と答えた。


*    *    *


曲げるとき、起こすとき、伸ばすとき。
自分のからだを、どう意識するか。骨で意識するか。筋肉で意識するか。膜で意識するか。つながりで意識するか。


「かかとをつきだして、足首を縮めてみて」

と言われたので、“クイッ”と曲げた。

ちょっと曲がりにくいなと思いながら、ゴリゴリ曲げていた。
足首をまわすときは、手でつかんでグリグリまわしていた。


「内と外のくるぶしの中に、小さな骨がたくさんあって、それらが歯車のように動いているんです」

と言われてはじめて、その下の骨が、悲鳴をあげていることを知った。


足首を曲げろと言われれば、足首だけを縮め、かかとを出せと言われれば、かかとだけを突き出し、つながっている全体など考えることもなく、そこだけを、ひとりだけでがんばらせていた。


ひとりだけでがんばる。


それは、そのまま、わたしの生きる姿勢だった……


*    *    *


(からだは、一枚の膜でおおわれて、つながっている)


かかとを動かしたいのなら、つながるふくらはぎや、ひざ裏から、かかとを押し出すようなイメージをもってみる。


(始点はどこだろう?) 


ふともものうしろにきて、おしりにきて、おなかにきて、せなかにきて、肩甲骨のあたりにきて… あれ、ぜんぶつながってるよ! ってわかる。


(ひとりでがんばらなくてもいい。先頭で力を抜いているだけで、みんながその動きに力を貸してくれる)


そんなことがわかる。


*    *    *


大きなものが押し寄せてくるのを感じてみる。

それにゆだねるようにリラックスするだけで、局部的に負担がかかることなく、なめらかに望んだ動きが生まれる。


エレガントだ。


さまざまな筋肉やつつまれている一枚の膜が、その動きの後押しをしてくれている。

ちぢんでいるときも、そこを伸ばそうとするのではなく、ただ、つながっている大きなものを感じる。
その存在を意識できただけで、伸びていく。ゆるんでいく。


前からも後ろからも上からも下からも守られている。支えられている。


*    *    *


今まで、足は、円筒のようだった。直径をもち、股関節から下に伸びる棒のようなもの。コアもセンターもなかった。
だけど、ロルフィングを受けて、足にも軸があるんだと、初めて意識した。

重心がおりていくラインがある。いちばん楽に歩行できる体重移動のライン。

いままで、仕切りも棚もない場所に、むりやりつめこんでいた荷物が、ずれたり、落ちたり、偏ったりするように、ガタゴト揺れながら歩いていた。


(どうして、今日は歩きやすいんだろう?)とか、
(どうして、今日は足が重いんだろう?)とか、


理由もわからず、からだの変化を、ただ受けとめるしかなかった。
だけど、足の中心軸や、かかとまでの重心のラインを、意識できるようになると、


(あ、なんかズレてるのかな?)とか
(前にかたよりすぎてるな)


などと想像して、チマチマ修正できるようになった。おさまりよく骨盤が安定すると、歩行が楽になる。


*    *    *


今まで、地面は「敵」のようだった。
硬い地面を、「蹴る」ように歩いていた。
蹴るように、踏みつけるように、反発する力で歩いていた。
地面は固かった。足裏も硬かった。
固いものと硬いものが、ぶつかる力で、どちらも削られて、すり減っていくようだった。


足裏が硬いから、ほかの部分も緊張状態になる。
足首も、ひざも、股関節も、背骨も、頸椎も。

まるで、ブリキのかかしが竹馬に乗って、ギャロップしているみたいに。
止まることも、スピードをゆるめることもできず、痛々しく駆けていた。


でも。


ロルフィングの二回目を受けて、ふかふかのじゅうたんを踏むみたいに柔らかく感じられるようになった。
たとえていうなら、全面がピンク色の「肉球(!)」状態。 


しかも、着地のたびに、ぎゅっと指圧される感じがする。 


「預けていいんだ。任せていいんだ」


ぎゅっ ぎゅっ


余分な力が抜けていく。
ひとあしごとに、大地が足裏をつつみこみ、


ぎゅっ、ぎゅっ、


もみこまれるように、エネルギーがチャージされていく。
大地のエネルギーと、からだのコアのキャッチボール。

マッサージチェアに座るわけでもなく、ただ歩いているだけでリフレクソロジーを受けているように楽になり、たぶんこれは、一生つづくと思うから、得したなあと思う(笑)


*    *    *


ロルフィングは、ひとりでがんばりすぎないことを教えてくれた。


ロルフィングは、くっついていたものを離すこと。しわくちゃになっているものを伸ばすこと。もとあった場所に、もとあったように、もとあった軸で、いちばん楽な姿に、正していくこと。
ロルフィングは、つながっていることをおもいだすこと。まかせていいとリラックスすること。ゆだねていいと力を抜くこと。

ただ、つながっている大きなものを感じること
前からも後ろからも上からも下からも守られていること、支えられていることに気づくこと。


そして、ロルフィング三回目で、


ないがしろにしていたものを、たいせつにしてもらうことと、たいせつにしてもらって、たいせつにできるようになることを知った。
 
*    *    *


からだの中のブロックには、気づいていた。


それは、重くて古いレンガのようなもの? 刺さったナイフのようなもの? 
エネルギーの流れを滞らせているもの?
痛み? コリ? 硬化? 癒着?
寂しさ? 怒り? ねたみ? トラウマ? 


なんにせよ、ネガティブでどうしようもないものだった。
ちょっとやそっとの施術ではビクともしない。
どこからアプローチすればいいのか、はかりかねていた。


でも、


「ひきこもりみたいになってる子」


と言われて初めて、ひとつの人格として考えられるようになった。


「きっと、ギックリ腰のときにびっくりして、こわくて引っこんで、そのまま出てこれなくなってしまったんだね」


と言ってもらえて、

(そんなコなら、いたわってあげなきゃ…) 

と思えた。


もちろん、

(そんな、ギックリ腰(三十三歳)のときに引きこもったんじゃなくて、もっともっと古い、幼少期のトラウマかなんかだ。ぜったい)

と思ってはいるけれど(笑)


ギックリ腰のショックで引っこんでいるだけの、びびり虫のコだと言ってもらえたら、そういうことにしてしまいたくなる。
そんなコなら、かばいたくなるからだ。


どこからアプローチしていいか、はかりかねていたものだったのに、

(だいじょうぶだから、でておいでよ)

と言うことができるからだ。


(そうだったのかー。こわかったね。だいじょうぶだよ)

と、手をさしのべたくなるからだ。


(十五年近く引っこんだままだなんて、たいへん!)

と、早くひっぱりだして、抱きしめてあげたくなるからだ。


重くて古いレンガだとか、刺さったナイフだとか、寂しさだとか、怒りだとか、ねたみだとか、トラウマだとか、そんなふうに考えていたものが、いとおしいものに変わった……


ひとつ、そんなふうに思えることができたら、からだのすべてが、いつくしむべきものになる。
痛みも。コリも。硬化も。癒着も。腫れも。鬱滞も。すべて。


すべて。


*    *    *


コトバ(文章)だけでも、カラダ(マッサージ)だけでも、ダメだっただろうと思う。


カラダに語りかけながら、ココロに語りかけてくるもの。


それは、取り戻せたもの。もう二度と失わないもの。


ココロが忘れても、カラダが覚えている。
カラダが忘れても、ココロが覚えている。


ひとりでがんばりすぎないこと。つながっていること。まかせていいとリラックスすること。ゆだねていいと力を抜くこと。ないがしろにしていたものを、たいせつにすること。自分のからだをいつくしむこと。


カラダとココロに同時にはたらきかけると、最強になること。


ロルフィングの施術で、何を望むかと聞かれて、
「自分のエネルギーを自分で自由に使いたい」
と答えた。


ありがとう。あやかさん。


浜田えみな



ロルファー あやかさんのブログはこちら → 「カラダと仲良くなるコツ」


あやかさんは、吉井春樹さんのコトトレ講座出身のロルファーです。ゼロアーティスト養成講座の受講が縁となって知りあいました。
だから、これは、言うなれば「ゼロのおまけ」(笑)


ロルフィングがもたらすものは、あやかさんのHPのネーミングである「カラダ整理整頓」であり、「その人ほんらいの姿を取りもどしていくもの」だと、感じました。


わたしの気づきは、わたしの在るべき姿。わたしの取り戻していく場所。
みなさんは、みなさんの行きつく場所があります。


ロルフィングとは、いったいなんなのか? 


学んだことのない私には、よくわからなかったので、みなさんに読んでいただくブログの記事にはできないと思い、個人的な日記として書いていたのですが、三回目を終え、あやかさんに、ぜひ感想を聞かせてほしいと言われたので、ブログ用に加筆しました。


ロルフィングについて、関心を持たれたかたは、あやかさんに尋ねてみてください(^^)


カラダとココロに同時に働きかけることで開いていく扉の向こうにあるものを。