「島の豊かさってなんだ?」   Emileのコラム242  | 地球村研究室

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厳しい地球環境制約の中で心豊かに暮らすには?沖永良部島で実践しながら考えたいと思っています!!

 昨夕島に戻ると、何と気温26℃・・・ 明後日からまた寒くなるようだが、何とも・・・

今年は元旦から災害続きだが、島でも沖縄と鹿児島を結ぶフェリーが港で上手く止まれなくて岸壁にぶつかった。何でも、停止するためのバックギアが入らなかったそうだが・・・まだ就航して2年の新造船・・・

 

 でも、こんな時こそ、しっかりと前を向いて!!

 

  2月8日には、エコビーイング・シンポジウム2024「EARTH ONENESS -生命の星・地球」が、開催されます(六本木 国際文化会館)。しっかりと未来を語りましょう、お会いできるのを楽しみにしています。https://www.ecobeing.net/symposium/20240208.html

 

 京都にある同志社大学は1875年に新島襄によって創立した官許・同志社英語学校を基盤としている。この同志社大学で2019年から始まった新しい教育プログラムが「同志社大学新島塾」(新島塾)だ。新島塾では、学生の意欲と能力を在学中に可能な限り伸ばし、社会の様々な分野で活躍する有為な人物を輩出することを目的とし、リーダーシップ論、読書から始まる知の探究、合宿で鍛える知的基礎体力を教育の柱としている。

 

 この新島塾の合宿が11月に沖永良部島で開催され、20名ほどの塾生がフィールドリサーチを行った。このための課題・参考図書は、エイドリアン・ベジャンの「自由と進化 ―コンストラクタル法則による自然・社会・科学の階層性」と拙著「危機の時代こそ 心豊かに暮らしたい」だ。

 

 塾生たちは、事前に本を読み込み、関連資料を調査し議論を重ね、「コミュニティー」「世代間」「暮らしと自然」「閉鎖系エネルギー」「豊かさ」の5つをリサーチ・クエスチョンとしてフィールドリサーチに臨んだ。3日間、各所へ出掛け、島人と話をし、夜はデータの整理や議論を繰り返し、大変な負荷だったと思う。その最終報告会が12月に行われた。

 

 事前のディスカッションでは、5つのリサーチ・クエスチョン各々にかなりの疑念があったようだ。例えば、「豊かさ」では、「心の豊かさとは、社会のために自身が我慢するもので、物質の豊かさとは、自分の感情を殺さずに欲求を満たすもの」と考えていたらしいが、フィールドリサーチの結果、「心の豊かさとは必ずしも我慢することではなく、人と人との関わり合いのことではないのか」と結論し、未来にもコミュニティーが必要である、多様な価値感をお互いが許容することによってポジティブな未来が見えて来る、アニミズム的な精神感が暮らしを楽しませている、制約を肯定する中で今と明日(未来)を考える暮らしがある

・・・などの多くの提言を頂いた。

 

 頂いた提言をあらためて整理すると、それは「人と人、人と自然の関わりを豊かにすることが今の島の文化をつくり、未来にも求められる価値観」ということになるように思う。それは、まさに「一元論的社会の再考」ということになろう。

 

 今、地球環境問題が危機的な状況をつくっているが、これは二元論的な思考に原点があることは確かだ。ルネ・デカルトの二元論では、心と身体は別物で、ここから生まれたのが機械論的自然観である。すなわち、自然は数式で表現される機械的法則によって解明される、したがって、自然の法則を解明すればするほど人間の自然支配は容易になる、さらに、人間が自然を奴隷のごとく自由に使うことが出来るというものだ。それこそが、近代科学と技術の原理であり、これを発展させることで豊かで便利な社会を創出した。無論デカルトがこの原理をつくったわけでは無く、古くはプラトンやソクラテスの思考の中にも、さらには旧約聖書の第1章にも明らかである。

 

 この原理によって産業革命が起こり、現在の深刻な環境問題につながるのであるが、新島塾の皆さんは、そうではなく「一元論的社会」が未来の豊かさをつくるのではないかという。

 

 一元論とは、柳宗悦らが提唱した「民藝」に通ずる概念であるが、柳宗悦『工藝の道』から一部を引用するなら『されば地と隔たる器はなく、人を離るる器はない。それも吾々に役立とうとてこの世に生まれた品々である。それ故用途を離れては、器の生命は失せる。また用に堪え得ずば、その意味はないであろう。そこには忠順な現世への奉仕がある。奉仕の心なき器は、器と呼ばるべきではない。ここに「用」とは単に物的用という義では決してない。

用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である。』すなわち、心と体(物、自然)は、二元論の言うような別物ではなく、一つなのであるということだ。

 

 残念ながら、日本でも二元論的な思考が社会の主流となっているが、100年前までは一元論が生活の基盤だったのだ。現在の厳しい地球環境制約の中で、我慢することなく心豊かに暮らすには、自然の循環の範囲内でものをつくり、暮らす必要がある。沖永良部島に、その火種(一元論的社会)がしっかりと残っていることを新島塾の皆さんがあらためて見つけてくださったことに感謝するとともに、京都という都会の中でも一元論的な暮らしが出来ることを実践して頂きたいと思う。