僕が、片時もフランチェスカを忘れなかったと言えば、嘘になる。
あの橋の近くの町で、彼女の家族を見た時、すぐには電話がこないだろうと覚悟した。それでも、撮影旅行で、急にホテルを変えるときなど、ジニーに必ず連絡した。
どんなに落ち込んでいても、フレームを覗くと、僕は生き返る。仕事が僕のフランチェスカを、想わないですむ唯一の方法だった。
だが、ある時からそのフランチェスカが、僕の前に現れるようになった。
もちろん、まぼろしだ。撮影場所を探していると、フランチェスカが一瞬、そこに佇んでいるように見える景色があるのだ。
それは、僕がフランチェスカに見せたいと強く思う景色だからだろう。
その時に撮った写真は、評判がよく、たいていジョージに採用された。
フランチェスカが現れたときは、夜、ホテルのバーでブランデーを飲む。そうでない日はビールだ。
地元の人と飲みながら、撮影ポイントの穴場を聞いたりした。僕は、以前より、人付き合いがよくなっていた。
たぶん、自分に自信が付いたからだと思う。生い立ちに引け目を感じ、どこか自分に人間としての欠陥があると、人とかかわるのを避けていたのだが、フランチェスカに全てを受け入れられてから、普通の人間になれた気がする。
そのせいか、僕は風景に人物を入れるようになっていった。
ある時、僕はジョージから「日本の中のエド」のテーマを与えられた。
京都を回り、城を巡り、東京の下町を歩き、シャッターを押し続けた。明日は帰国という日、僕は好きなものを撮ろうと、東京を散策した。
その時、僕は剣道大会に出会った。サムライだ。大会の主催者は、試合以外なら、何を映しても良いと言ってくれたので、僕は会場のあちこちにカメラを向けた。
いきなり、その少年はフレームに入ってきた。彼の美しさに惹かれ、僕は、その少年を中心に撮影することにした。
試合に向かう真剣な眼差し、かぶとのようなものを取った時に流れる汗、空を見上げる笑顔を夢中で撮った。
その組写真は、ナショナルジオグラフィックの巻頭を飾った。現在のサムライだとジョージが称賛してくれた。僕の初めての巻頭写真だった。
僕の仕事は増えていき、評価もそれにつれ高まった。そして、僕は大きな賞を受けるという内定を知らされた。
思いがけないことに戸惑っていると、ジョージとジニーが前祝に、ホテルのバーに連れて行ってくれた。
中央にダンスフロア―があり、狭い舞台にピアノとマイクがある、都会の隠れたオアシス。最高級のバーだった。
「おめでとう、ロバート。ここ数年の君の写真は変わったね。前は美しく撮るのは、超一流だけど、なんか暖かみがなかった。どこか、冷静に観察しているような・・・。うん、変わった。」
ジョージが、これほど誉めてくれるのは、珍しい。
受賞対象の作品はパリの下町の中庭だった。散りかけのリラの樹の下で、将校姿の男が、花びらが舞う中、たたずんでいた。
「何でもない庭が美しく撮れている。足元のバケツまで美しい。そして、物語があるよ。」
僕と同じ年頃の将校は、戦争中の悲恋を語ってくれた。思い出していると・・。
ピアノが鳴り始め、僕はその世界に引き込まれた。
聞いたことがある曲、あぁ、あの時、ラジオから流れてきた曲、思わず目をつぶり、聞くことに集中した。
「長い間待ち焦がれた~夢があるの~」
あの歌だ。フランチェスカの手の冷たさを感じる、伏せた長い睫毛が震えているのが見える・・・。
僕は、あの時に飛んでいた。あの夜に・・。
拍手の音に、現実に戻された。
舞台を見ると、黒いドレスの女性が、僕を見つめている。この人が、今の歌を歌っていたのか。
30半ばのきれいな・・、マリアン!
「しばらく、ロバート。」
僕たちのテーブルに来た彼女に、ジョージとジニーは驚いている。
「妻・・だった人です。マリアン、こちらはジョージとジニー。出版社の人たちだ。」
三人は、握手を交わしているが、僕は、元妻の登場に混乱していた。
「ニューヨークやラスベガスで歌っているの。時々ラジオでも、中継されていることがあるけど、その時はバックコーラスかな。」
ラジオ・・、もしかして、あの時の・・。
「ロバート、何かのお祝い?」
「なぜ、わかるんですか?」
ジニーが、不思議そうに聞くと、マリアンは苦笑する。
「ロバートは、お金を使うことを思いつかないし、そんな場所も知らない人。ここは高級バーよ。お祝いに連れてこられない限り、来ないもの。」
ジョージとジニーが、笑う。「確かに」と。
「それで、マリアン、今・・。」
「安心して、結婚したわ、あのピアノ弾きと。」
軽やかにピアノ曲を弾いている男を見たら、ウィンクを返された。
ピアノの音が変わり、前奏になった。「それじゃ。」と言うと、舞台に向かっていく・・と思ったら、急に立ち止まり僕の方に、戻ってきた。
「あのギターは?」
僕は慌てた。
「5年前までは、トラックの中だったけど、今は・・玄関横の物置・・寝室のクロゼットかも・・、いや、ごめん。」
マリアンは、笑顔になった。最高の笑顔で僕の耳元に顔を寄せ、僕にだけささやく。
「誰かを、愛しているのね。愛することができるようになったのね。ギターは捨てて・・。」
「マリアン・・」
彼女は2,3歩、歩くと、振り返り、「あなたは変わったわ。いい写真を撮ってね」と言うと、片手を振り、マイクの前にたった。
この夜の僕の祝宴は、ジョージとジニーの質問と僕のうわの空の答えに、しばし費やされた。
僕は、曖昧な返答をしながらも、マリアンが僕にだけ言った言葉を考えていた。
「愛することができるようになったのね」と「ギターは捨てて」
そう、僕は、愛することができるようになったのだ。フランチェスカによって、愛することの素晴らしさと苦しみを知った。
マリアンにしてあげられたのは・・・親切だけだった。
あの頃は愛が分からず、マリアンの愛にも気付かなかったのだ。
ギターが、僕の未熟な愛の象徴で、マリアンに去られたとき、捨てることも置いておくこともできなかった。僕を愛してくれた理由も、去っていく原因もわからず、わかるのはマリアンを幸せにできなかったというだけ。
ギターをそばに置いておけば、愛が分かるような気がしていたのかもしれない。そのくせ、ギターに触れることさえしなかったのは、愛を恐れていたからだ。
フランチェスカの家で、久しぶりに触ったギターをトラックに乗せて出発した時が、僕の未熟な愛を、やっと僕の心のどこかにしまうことができた時だった。
フランチェスカとの愛で、愛の本当の意味を知ったから。
だからギターは必要なくなり、どこかにしまい込んだ。
マリアンは、フランチェスカの言った通り「私を忘れないで」とギターを置いていったのだ。
私を忘れないで、愛を勘違いしないで、愛することができるまで、私を忘れないで・・、と。
「ロバート、瞑想は終わったか」
ジョージとジニーがテーブルの横に立っている。
「何を驚いているの、あなた、急に考え込んでしまったから『踊ってくるわ』って言ったら、『わかった』って返事したのに。」
「ジニー、しかたがないさ。別れた女房に突然あったんだ。ぼうーっとするさ。2曲も踊って喉がかわいた。さぁ、もう一杯飲もう!」
いつの間にか、マリアンもピアノ弾きも消えていた。僕は、声に出さずにつぶやいた。「ありがとう。しあわせに。ギターは・・捨てるよ。」
それにしても、メガネをはずして目元の汗を拭いているジニーとマリアンは似ている。