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emixbubuのブログ

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人は ゾウ に乗る ネズミ のようなものだ。


顕在意識・・・ネズミ

潜在意識・・・ゾウ


しかし感覚としては、ネズミのみだと思っている。

ネズミですべてのように感じている。


普通、人はネズミがゾウを動かそうとしているようなものだ。

その事態に気づいていない人は、とても多い。


実際は、ゾウが動いている。

ネズミは乗っかってて、翻弄されているだけだ。



ネズミの望みが叶うのではない。

ゾウの夢が叶うのだ。


自分が何を望んでいるのかを、ネズミが望んでいることではなくて、ゾウが望むことを知れなければならない。

その望みは、誰の望みなのか?

本当に自分が望んでいることなのか?


本当の自分を見つけることは簡単ではない。

自分と対峙していかなければ決して見つからない。

しかも、それはいばらの道だ。

自分を掘り下げていくことは、危険と判断されるからだ。

自尊心や自己肯定感を傷つける危険があるからだ。


本当に自分が望んでいるものを問うていくことは、とても厳しいのだということを心しておきたい。

ゾウが望むものを知っておくと、手が打てる。



ゾウは命を守っている。

ゾウは命を守るために、一番の近道をする。

ゾウの判断は命に直結している。

命と天秤に掛けなければ、ゾウは方向転換してはくれない。


そしてこれまた重要なのが、命とはなにか?・・ということ。

ゾウにとっての命とは、食べ物であり、プライドであり、他人からもらう認めだったりするわけだ。


不登校の子供が次女の友達にいる。

なぜ不登校か?

学校へ行くと、命が危険だとゾウが感じたからだ。

ゾウは彼女の心と体を守ってる。

学校へ行けば、ストレスは溜まる。

学校へ行けば、自己肯定感は下がる。

学校へ行けば、プライドが傷つく。

すべては命の危険と判断される。

だからネズミが学校へ行かなくてはならないのに・・・と思っていても、学校へはいけない。

ゾウが望むことが叶えられるのだ。


ネズミには価値観というオモリが頭に乗っかっている。

学校には通うべきだ・・という価値観。

親を悲しませたくない・・という価値観。

友達は大切・・という価値観。


価値観に左右されて、ゾウのいう言葉はなかなか耳に届かない。

「学校は命の危険だ」


難しいが、まずはゾウの考えていることを理解し、ネズミのしたいことを照らし合わせて、できるだけ両者の差が出ない方向を模索してみるとか。

ゾウが危険を感じている部分を洗い出して、問題そのものを解決してしまうとか。

ケースバイケースで言えることは出てくると思う。


ネズミにゾウを動かすことは基本的には無理だ。

コントロールなんて、考える方が間違っていると思う。

ネズミはゾウに歩調を合わせて歩く方法を考える方がいい。

ゾウを動かしたいなら、環境を整えてやる方がいい。

ゾウが感じれるように。行動より感情を変える方が先だ。


ゾウの声は危険になると届く。

体に声は届く。

パニック症状が出たり、ろれつが回らなくなったり、体の変化がある。

ゾウはちゃんと伝えようとしている。それをネズミが聞いてやらないだけだ。



自分が何を持っているかは、自分でわからないこともある。

どんないいものやいい影響を他人に与えられるのかは、どうすればわかるか?



自分はいつもさらりとこなしていて、なかなか気づかないこともある。

不安を人より感じにくいだとか、過去分析が上手だとか、目標設定地図作成が上手だとか。




簡単にできてしまっている特徴というのは、自分では当たり前すぎて気づかないこともあるな~と思った。



「自覚」ではなく、「他覚」すればいいかな~と思うのだ。

「他覚」は勝手につくった字だ。



人間は、人と人のコミュニケーションの中に生きている。

残念ながらこれを外すことはできない。

自分を含めた人とのコミュニケーションは、一生の課題なのだ。

ど~しても避けて通ることはできない。

嫌でも。傷ついても。



なぜなら人は、人から幸せをもらうからだ。

幸せは他人が運んでくるのだ。

お金(食べ物)、地位や権力(自尊心)、愛(コミュニケーション)、安定や安心、みんな人と人の間に勝ち取るものだ。


自分一人では比較する対象物が少なくなる。

だから感じることが難しいのだと思う。


他人の評価に頼ってみるとそういう意味でいいのだろうな~って思ったのだ。


私ってなんだろう? それを他人に判断してもらうという方法も一つあるということが言いたい。


私が何を持っているかは、他人に聞けばいい。


周りの人たちが思うことは、たいがい当たっているかもしれない。

たとえ違っていたとしても、自分一人の主張は小さな主張だ。

価値観なんて人が決めるものなのだから、何が正しくて何が悪いかなんて、あまり関係ない。


どのくらいの人数の人がそう考えているかが、重要なことも多い。


自分の中の主張は、自分自身が納得していれば、それでいい。

それ以上他人に認めてもらうことを求める必要がない。

他人に求めすぎるのは、自分が自分にOKを出していないからだ。

他人からの評価で、自分には出せない自分への点数を決めたがる。


ところが、他人に点数をつけてもらったとしても、結局は自分自身でつけた点数に翻弄されるものなのだ。



たとえば、自分で自分には30点をつけているとしよう。なにか自分のある部分についてだ。仕事とか、親としてどうかとか。

ところが点があまりにも低いので、他人に評価を上げてもらおうとする。

他人に聞くと・・・60点という評価をもらったとする。

その評価に依存したがる。自分のつけた点数とのギャップに苦しんだりもする。

うまいこといくと、自分の30点を上げれたりもする。

ギャップに対してもらった60点から30点を見て、自己否定を強めたりもする。


人から褒められることで、自分を責めていくこともよく起こることだと思う。


たとえば、他人の評価が80点とする。

より点数が信じられなくて自己否定感は強まるかもしれない。

褒められるたびに、自分を責めるかもしれない。

けれど点数を上げたいという、基本的欲求があるので、また評価をもらいたくなる。

繰り返しだ。



自分で自分を認められれば、他人に聞くという必要もなくなる。


それで、他人に聞く必要がなくなったものに関して、他人からの評価をもらうといいかもということが今回言いたいことだ。



自分の評価には満足している。

けれどいったい他人なら何点をつけるのかな?

その評価をもらって、それを自分の特性として受け止めて、いいように利用できると思うのだ。


あ、私は人にはこう思われているんだな~ って着目して強みとして考慮してみる。


社会に売り出す特性となるかもしれない。

自分の他の難点を補うことに使えるかもしれない。

自分の幅をもっと広げれるかもしれない。



他人の評価は侮れない。

世界は自分の中に存在しているが、人間というルールを無視して生きていくことはできない話だ。



人間社会に生まれ落ちたなら、人間社会で生きていく覚悟を決めなければならない。

親になったなら、親として覚悟を決めるというのと同じことだ。

会社に入社したら、たとえ理不尽な想いをしても、基本的にその会社のやり方に従う覚悟がなければらならない。



他人の評価というのは、人間のルールのうちだと思う。

いい評価もそれにあたるので、それを自分の特性としてとらえることはありだと思う。



自分は何を持っているだろう?

社会は自分の何を認めているのだろう?



それをどう自分に利用できるだろうか?

今日もたっぷり勉強してきたので、今脳がパンパンです。


脳から吸収してきた言葉が漏れていくのがもったいなくて・・・

なんとかノート取ったりして書き残そうとするのだけれど、書いたものを後で読んでも、帰ってこなかったりもしちゃう。。。

いやはや、もったいない。


忘れないうちに、せめて一つだけは書いておきたい。


今日、私の先生とお話していて、腑に落ちたことがこれ → 「言葉が血になる」


言葉は初め聞いたときは、顕在意識が聞く。

しかし、「聞く」という言葉はいくつもの可能性を持った言葉だと思うのだ。

以前臨床心理士の方が書いた本にもあった。「聴くとは、耳で14の心で聞くのだ」・・・だったと記憶している。

そのくらい心して相手の立場や価値観を読みながら聞こうということだろう。


今日言いたい「聞く」は、潜在意識(無意識)が聞くという話だ。


耳で聞く。

顕在意識が理解する。

何度も聞いたり、自分のもやもやに照らし合わせたりするうちに、「あっ!」っと気づく瞬間がやってくる。

これは潜在意識に届いた瞬間。

体を言葉が血になり、駆け巡る。

新しい思考が身につく。血となり肉となるということ。

持っている色が変わるので、感じ方が変わる。

感情が変わったので、行動が変わる。


人は無意識の大きさをあまりわかっていない。

自分が動かしていると思っているものの大きさを理解していない。

コントロール、コントロールというけれど(私自身の目標である)、実はコントロールできるような代物ではないと思う。

どちらかというと、意識が無意識に合わせて認識していくということかと思う。


氷山の水面に出た部分が、海の下の巨大な氷山部分を動かそうとしても簡単にはいかない。

どれだけ大きな無意識を持っているかをまずは感覚で知ることがいいと思うのだ。


自分が動かそうと思っているもののデカさを知ろう。

どれだけ自分に力がないか。同じ自分でもハンドルを握っているのは、起きている自分ではない。

自分が認識できない自分が、自分を動かしているのだ。


おもしろいな~

自分の力の小ささがとってもおもしろい。

大きいと思っていた自分の力の小ささを今日は何人かと話しながら、私の腑に落ちた。


きっと血になった。


私の見方は、きっと変わった。


ひとつひとつ変わっていく。

明日はまた新しい自分の誕生かもしれない。


新しい自分の誕生は、自分が血にしたことにより、起こるのだ。

他人が、ではない。

自分が、だ。


自分ができることとできないこと。

自分の顕在意識ができることとできないこと。

自分の無意識に語りかけること。

自分の無意識が望むこと。


自分の血になったことは、自分の色になっている。

折り重なった自分の色が総合してどんな色なのかを探っていくことが、客観視して見ることとなり、コントロールできないまでも、無意識と歩調を合わせていける方法となるのではないだろうか?



まだ頭ぐるぐる。

考えたちがお話が終わって帰った今になっても、パチパチと音を立てて私の中で化学反応を起こしている。

あ”~ もったいない。 逃げていくちっちゃな考えたちの中にも、興味深いものがたくさんあるのに。


もっと許容量を上げたい。