古典的な反応 | emixbubuのブログ

emixbubuのブログ

心を楽にするお手伝いをさせていただいています。
カウンセリング・コーチング・セミナー講師などご依頼がありましたらこちらまでお願いします。
http://wisdom-house.bsgie.net/
どうせかかっているフィルターです。ご自分の好きなフィルターにしてみませんか??

人間の持つ力ってなんだろう? どのくらいあるのか?


人間は比較でものを判断している生き物だ。

だから「反応」しか基本的にはないと思うのだ。


で、この「反応」にも古典的なものと、自分の特性としての反応があると思う。


自分の特性としての反応とは、育ってきた環境から生まれた価値観や遺伝子の特性だったりとか。


古典的な反応とは、ある意味反射的なものを指している、と仮定してみる。

どこからが特性でどこからが古典的なものかは難しいラインなのだが、たとえば洋画を観ていてよくあるのが、「あぁ今のよくわかる」っていう反応と、「え?そんな風に取るの?アメリカ人だからかな~?」っていう反応があると思うんだ。


前者が古典的なもので、国が持つ価値観にさえ捉われない人であるなら当たり前の反応のことだ。

後者は育った環境により発生している反応と言えるので、特性の範囲としよう。


この古典的な反応について今回は話したいのだ。


古典的反応は、防ぐことが難しい。

「え!うれしい」「ん?ヤダ」「ありえない」「好き!」「嫌い!」・・・など瞬時に出てくるものだ。

しかしあくまで反応しているわけで、相手の立ち位置に立って考えた結果の感情ではない。

そこに「自分」はなく、あるのはただの古典的反応なのだ。


だから自分が取った反応について思い悩む必要もないし、肯定も否定もする必要もない。

ただの反応だからだ。




・・・・・・・・とっても難しい話をしようとしているつもりだが、自分がまだまだなので生み出すことがとても苦しい。

書こうとしても文字が浮かんでこない。

自分ではこのニュアンス・・と形をとらえているつもりでも、人に伝えるにはどうしたらいいんだろう?

模索を続けているが難しく感じている。う~む。。。





昨日通っている学校のトレーナーが言っていた。

「ないものは出せない」


その通りだと思う!

ないものは生み出すことなどできない。

ではあるものに関してはどうだろうか?

どうやれば最大限の力を発揮できるんだろう?

自分の蓋がどれかがはっきりわからない。

もっとよく自分を見つめないと。

私の蓋は何でできているのか?

不安? 嫉妬? 自分の能力の無さに失望か? それとも現実を直視したくない逃げか?

あるいは失うことへの恐怖か? あせり? 元々ないのか?


心と脳の中のもやもやが時折光る。

ぴかぴかと何かを私に知らせようとしている。

もともと動物で生き物で完全体の私たち。

すでに体は知っているのだ。

ただ読めないだけだ。

長い年月かかって遺伝子に汲み取られた情報が一番正しいはずだ。

それ以上でも、それ以下でもない。


こうやって生み出そうともがいていることも、すべては生命の掌の上の出来事に他ならない。

そう。私は反応しているのだ。

そしてそれ以上ではない。


私自身が作り出した価値観ではない。

なにか周りに漂っていて、体の成長とともに心に取り入れて紡いでいっただけの話だ。

「私」があるわけじゃない。ただの反応だ。神経伝達の一部で全部なだけだ。


・・・だから自分の都合のいいように世の中を見ればいい。

自分が気持ちいいってのを一番大事にすればいい。

それが人間関係のラットレースから出る方法だ。

経済界で言えば、大金持ち。

政界で言えば、権力。

仏教で言えば、仏。いや、菩薩かな? いやそれも言いすぎかな~?




どうせ人間関係からしか人は幸せを感じることはできないのだ。

その人間関係には自分も入っているよ。

自分自身との人間関係だ。


自分を含む人間関係からしか幸せを感じることができないなら、何を悲観的に思う必要があるのか?

一歩外へ出れば、人なんてゴミのようにいっぱい歩いているではないか。

人、人、人。

そこが幸せの場所なんだ。


自分は一人じゃない。実際人口は60億人もいる。

目の前にある幸せの可能性を手にできないのは、自分との幸せが築けていないからだ。


人生を「今日一日」にするべく動いていきたい。

私の目標だ。


そしてこれは亡くなった祖父の目標でもあった。

おじいちゃんの部屋に晩年掲げられていた竹の書。

竹を半分に割って穴をあけて吊ってあった。書いてあった書が、「今日一日」だった。

この字はアメリカ生まれアメリカ育ちの母によるものだ。

この頃の母は習字を習っていた。

おじいちゃんに頼まれて母が書いたものと記憶している。


へろへろっとした文字で書かれていた「今日一日」

なぜかずっと気になっていた。

とても書道の字体には見えず、まるで油性ペンで書かれたような動きのない字体だった。

あまりのへろへろさに覚えているのか、「今日一日」という言葉を数ある言葉の中からなぜ選択されたのかが気になったのかは、自分でもよくわからない。


釈迦は言った。

「人生は一呼吸の間にしかない」


意味は分かる。

けれど道は遠い。

最初は一年くらいから始めるといいらしい。

「人生は一年の間」

だんだん短くしていく。修行だな。半年、3か月、ひと月、一週間、一日。

本当はもっともっとやって「一呼吸」まで持って行くことを目標に修行僧たちは日々自分と向き合っているのだろうが、私のような凡人だときつい。


なので目標は「今日一日」



・・・なんか完全に書こうと思っていたところからずれてしまった。

うまく書けないことはジレンマを作るが、私にとってきっと必要なことなんだろう。


古典的な反応は、仕方のないことで、自分の力の及ぶ範囲外のことかもしれない。

修行に修行を積んで、いずれはそこもコントロールできるようになれば一番いいのだろうけど、まずは汚れきった色界を限度枠にしてその中でしっかり励むために、古典的な反応は仕方ないと捉え、そこに感情の上乗せをしていくことをやめるべきだと言いたかった。


「どうして私はそうなんだろう?」

「もっと努力が必要だ」

「忘れっぽくて私って悪い奴だ」

これもケースによるが、古典的な反応の場合、気にする必要はない。時間と精神の無駄使いだ。


早く断ち切って次に行こうよ!