変化 脱皮 差異 | emixbubuのブログ

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ホントは子供との今のかかわりを書きたかったのだが・・・

その話はまた今度にしょう。今おもしろい取り組みを家でしているのだ。


寝る前になんだか紙に向かいたくなった。

いつも書かないでおこう。。とか、もっと練ってから書こうと思っているのだが・・「書く」という行動は気持ちの根をベースにしているものだからなかなか思うようにはいかないでいる。気持ちが高まった時にしかうまくできないでいる。

本当は書かないほうがいいと思うことも書いてしまうし、本当に言いたいことを書けなかったりもする。

書いてみると言いたかったことは捻じ曲がってしまい、後の祭りで、違う真実が作られてしまうこともある。

私にとって書くということは一体なんだろうな?


まるで自傷行為のように、ダイエット中なのにスイーツに手が伸びるように、時折書きたくて我慢できなくなる。

書き始めるとパソコンに置いている腕がだんだん熱くなってくるのだ。

まるで私の心の出口のようだ。腕を伝い文字となって何かを表現したくなる。それは作家のように高尚なものではない。ただ・・吐いているに過ぎないのかもしれない。後先考えず求めるものを手に入れることを無視した行為かもしれない。もう書かないでおこう、もう世に出さないでおこうといつも思っている。こうやって書いてしまったことを翌日には必ず後悔もする。数日後に読み返して自分を殺したくなることだってある。二度と読み返したくない文章もある。


自慰行為と同じようなものかもな。自分勝手で自己満足で自己否定の巣窟。ただ自分という世界がそこにあるだけなのかもな。書くことで自分自身とやってるのかもしれない私は。そう考えると笑けてくるし泣きたくもなる。

笑って泣いたとしてもすべては自分勝手な感情の上に成り立っているにすぎず・・後で空しくなるのはわかっているのに。10代の子供のようにやりたくなったらやるだけのサルなのかもな。なんてつまらないんだ。



長所と短所が同じムジナのものであるように、すべての反対語は同じものだ。

子供たちに教え説く善悪も、女が身勝手に感じ判断を下す好き嫌いさえも、視点を少しずらして見れば単に同じボールの中のものにすぎない。

善を悪に変えることなんて簡単だ。愛と憎しみだって簡単にチェンジできてしまう。そこにあるものはものの見方の違いのみであって、本質の変化ではない。

生も死も同じ種類のものだ。違いなどたいしたものではないのかもしれないな。。。


自分の過去を恥、自分がやりたかったことを認めてあげることは人間であることを誇れることなのかもな。

動物はしない。そして人間だから偉いというものでもない。単に人間だというだけだ。

すべてはしかたないのだ。



前に書いたが「Lの世界」というアメリカのドラマにはまっている。

レズビアンたちの日常を描いたドラマなのだが、私にとっては得られるものが大きい。

理由は、ドラマとして登場人物たちの心理描写が長けた描き方だということが一つ。

ストーリー性を問うとすればあまり感心できるものではないのかもしれない。そこには起承転結があるわけではないからだ。あくまでも8人くらいの女性たちの日常を書いているだけだ。しかしその日常に彼女たちそれぞれの人生がある。確かに息づいている人生のひとこまをみていると、私たちの日常の確かさを感じれるのだ。

まるで自分の人生の一部を見てるようにも感じる。起こっている出来事が違うとしても、原因と結果、悩みと苦しみは同じものであるかに見えてしまう。

日常の切りっぱなしはリアリティさをずいぶんと上げてくれる。映画などは作った人の中で出来上がった結末があるわけだが、そのせいで信憑性を疑う気持ちが起きないわけではない。人生は物語が終わった後もずっと続いていくわけだし、登場人物たちの生き方に変化も出てくるはずだ。何年後かの登場人物を出してみると全く違う人格ではないかと疑うような変化があったとしても現実ならおかしくはない。あんなに大恋愛の末結ばれた仲だって数年後には別れを告げる関係だってあり得るわけだ。ハッピーエンドはその場限りのものであって永遠ではないからだ。

このドラマはそんな変化に富んだリアリティの高い作品だと思う。


また女性としての私の誇りも満たしてくれる。レズビアンの世界は女性であることを高らかに歌い上げてくれてるように見えて気持ちがいい。女であることを喜ばせてもくれるのだ。

そして女性であることへの違和感も増大させてもくれる。こちらはあまり嬉しくはないものなのだが、私にとっては見なくてはならない部分であるみたいだ。男への憧れなんて幼い頃に捨てれたと思っていたのにまだちょっぴり残っていて私の見方を左右している部分が残っているようだ。

私は女性を軽蔑している。同時に誇りにも思っている。その双方はただ同じボールにあるなんらかの材料にすぎずたいした違いではないのだ、きっと。

変わりたいのなら捨て去りたいのならそれではダメだ。もっと高い位置から自分の状態を確認しコントロールできるようになることを目指さないといけない。

同じボールに入っている材料をとやかく言っている間は脱皮などムリだ。


小さな差異がすれ違いとなってやがて大きな洪水となる。積み重ねた時間の重みが小さな差異を巨大なパワーに変えてしまうものだ。

すべての原因は自分にある。自分以外の何もののせいではない。自業自得とは悪い意味合いだけを持つものではない。治らなければならないような環境に自分をおくことによって自業自得はやってきて結果救われることだってあり得る。逆に自分自身しか自分を助けることはできないし、変えてやることもできないのだ。

娘たちがすべてを世界のせいにしているのを見ているとよくわかる。世界はその人が作っている。世界を受け入れていないのはその本人だ。世界が拒否しているのではない。その人が遮断しているのだ。自業自得なのだ。


環境を整え、自業自得を起こし、よりよい状態を作っていくことはできる。私はできていないが、理論的にはできるんだということはわかった。



・・・この文章を読む人はおもしろくないだろうな~

まったく読者というものを意識して書けていない。ごめんなさい。

もっともっと強くなります。きっと。

自己中で申し訳ない。