最近文章をあまり書いていないな。
今日は春休みの中のオヤスミの日だ。
春休みというのは学校のない日だ。したがって私の仕事である英語教室もオヤスミ期間なのだ。
しかし、母親という仕事は普段よりきつくなる。
学校のありがたさ、給食制度のありがたさが身に沁みる期間です
また塾の送り迎えやお弁当作りは普段から3倍4倍増となる
時間をはかり、タクシードライバーという執事でなくてもならない。
子供たちのメンタル面も春休みになると、ゆがむ。
普段と違う生活で、感情の起伏が少し大きくなるように思う。
これはたぶん「自由」が与えられて、その自由さに心が痛むのだと思う。
自分のコントロールの難しさを学ぶいい機会なんだろうな~
しかしそれを監督する母親としての仕事は、やはり倍増するわけで・・・・
今日は塾の春期講習の中休みの一日。
塾がない。
弁当作らなくていい。
水筒を一日に何本も洗わなくていい。
送り迎えしなくてもいい。
英語教室の子供たちはやってこない。
サッカーの試合もない。
新体操もない。
サイエンスラボもない。
ブレイクダンスもない。
子供たちそれぞれの予定はない。お友達は訪ねてこない。
私個人の予定もない。夜にコナミるけど
ないないづくしの一日のスタート。
今日は春休みの中のオヤスミの一日だ
「母親」を下ろしたいときが、時折ある。
このブログは基本的には子供たちに遺書のつもりで綴っているので、本来なら書いてはいけないことかもしれないが、私には2人も娘がいるわけで、娘たちに母親のせいいっぱいを伝えておくことも大事かな。。と思うのであえて書いてみよう。
仕事って、やめたい!!って思うときあるよね。
もう十分我慢した。努力もした。納得のいかないことでも飲んできた。
もう自分にも誠実にやめても大丈夫って言えるよ、って思えるとき。
他の仕事に就いたほうが、生産性も将来性も上がるのではないかと思える瞬間。
続けることと止めることを天秤にかけて、未来を模索できるって自由さがそこにはある。
けれど、「母親」という職業にその自由はない。
最初から選べはしない。やめるという選択肢は存在しないのだ。
これが残念なことに、「父親」ってのとは違うのだ。私は違うと思っている。
父親というのは、そこまでの重みはないと思う。
もちろん子供にとって大切な存在であることは間違いないのだが、母親の重みが標準を上回っているとでもいうか・・・
普通ではないのだ、母親って職業は。
別に母親を特別視したいわけで言っているのではないのよ。
ただね、下ろせないの。荷物を下ろすという権利がない。
それが時折肩を痛ませる。
下ろしたいって思うときがあるの。
下ろしたいって思っていることに気づいている人はまだいい。
気づかずにおかしな方向に走ってしまう人も多い。
だから「気づき」というのはとても大事なこと。
自分を知って、その気持ちのケア法を考えていってあげないと、取り返しのつかない事態を招くことだってある。
若い母親は、父親であるダンナにその気持ちを理解してもらおうと必至で話すが、これを理解してというのは、北極に行った体験を体感で理解してというのと同じくらいわかりづらいものだと思う。
父親には父親の視点が必要で、父親としての自分を確立していかなくてはいけない時期に、母親の気持ちまでケアしていくことは、負担だと思う。
若い母親はそのうち父親に理解してもらおうと思うことをやめる。
無駄だと気づくのだ。自分で始末したほうが早い。
父親をうまく利用する一アイテムという場所におけば、うまく行く。
自民党と民主党のように、違う派閥で戦ったって無駄だ。
ダンナとの関係は父親VS母親ではなくて、主人と妻である関係の方がいくぶんもスマートに進む。なぜなら主人と妻って関係には、男と女という関係図が見えているからだ。
ここでダンナを切り離せた女性が、母親としても成功を収めるだろうな。。
逆に言うと、切り離せないでいると子育てが終わった頃に起きる恐ろしい未来への根がこの時に出来上がる。
「あきらめ」が肝心で、諦めるということは落胆するということではない。
違う目線からのアプローチに切り替えるということだ。
父親業は父親に任せておけばいい。自分は母親業を一人でこなせばいい。
父親にまで母親の仕事を求めるということをやめればいい。
だって、父親にオムツは替えてもらえても、精神的な抱えを理解してもらうことは難しいからだ。
そしてそこには女性どおしのコミュニティの大事さも必須だね。
女性というのはコミュニティを組む生き物だ。
これはきっとこの子育てに非常に重要なもので、だから幼い時から女の中でもまれながら育ってくるのだろう。
学校で辛い目に合うってのも、男子と女子では意味が違うのだとも思うかな~
女子は女子どおしのやりとりの中で成長する。
一生友人におんぶに抱っこって人も多いがね・・・
一生人を悪く言って自己保身していく生き方の人も多いけれどね・・・
けどうまくいけば、子供を育てるのに上手にコミュニティを利用できる。
ダンナの力を借りなくても、女性たちの中だけで子供を育てられる。
子供たちはみな一緒に育つのだ、本来は。
女たちに育てられるのだ。近所の女性どおしでたくさんの子供を育てるものだ。
それが一番母親にとってまだ楽な方法なのだろうな~
子育ての辛さも理解してくれるし、協力もうまくし合える。
時間的な要素の協力も容易い。
もっと言えば、女には母親という女性らしさが染み付いているものだ。だから、仲間の女性から、自分の母親なりの暖かみを感じて甘えれるのだ。自分だってかつては子供だったのだから、母親が恋しい時もある。
時にはくじけそうになったり、思い切り気持ちを誰かにゆだねたい時もある。
その時に仲間の女性の母性に身をゆだねてしまおう。
きっと癒される。女性にはそのパワーがある。漂う母性本能は隠せない。自身も持っているであろう母性は、子供を産んでいない女性からも感じる。素晴らしい生き物だな女性って
男性は女性に頼りたい気持ちも持っている。
だって元は子供だからだ
そして男としても立派でいたい。
父親の根本的な意識はここに入るのだと思う。
だから母親のダンナへの自己主張は、けっして母親のためにはならない。
ダンナの前では女であるべきだろう。
女としての自分を癒してもらえばいい。
母親ってのを理解してもらわなくていい。どうせムリだ。
癒しは他で求めよう。
友人とのかかわりでちょっと母親を置けるかもしれないし、女性同士のコミュニティで一緒に抱えてもらえるかもしれない。
自分の母親に抱えてもらうのもいいね。おばあちゃんのためにはその方が脳科学的にも若々しくいれると証明されているそうだ。びっくりだね!
女性ホルモンが絶えても、女性は女性なのだね。性って重要だね。
母親をちょっと下ろしたくて。。。私はいろいろやってるってとこもあるのかもしれないな。
今回この記事を書こうと思ったのはそんなところから。
今はまだいい。
もっと子供たちが幼い頃は、体のしんどさから母親を放棄したいことなんてしょっちゅうだった。
そうなると、自己嫌悪が身を襲うのだ。
母親なのに。。自分で望んだのに。。寝顔はこんなに可愛いのに。。寝顔を見て何度泣いたことか、何度謝ったことか。。
今は長女にもめると言われる。
「自分で産んだくせに責任持てよ」って。
ひどい言葉だよね~ 必ず涙が流れる。とてもとても傷つく。とても苦しくなる。
けど「罪を憎んで人を憎まず」であろうって思っている。
私が子供たちを愛していることと、現実に起きた事柄を照らし合わせるのはやめようって思って子育てしてるつもり。
子供がしたことや、傷ついたことは別。
その人そのものに対する気持ちに変わりはない。
覚悟はできている。覚悟したいって思えるほどに愛してる。
そう付け加えておこう。
昨日もいろいろあった。
外や自分と戦ってきた子供たち。
それぞれお疲れさま
昨日も一日頑張ったね
ママも頑張ったよ。楽しい一日でした![]()