地震について |   EMA THE FROG

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    roukodama blog

被災地の皆さんに心よりのお見舞いを。
一人でも多くの命が救われることを心から祈ってます。
そして、物資の不足が少しでも早く解消されますように。



以下、千葉県での被災体験です。



地震当日僕は千葉市中央区新町にある会社にいて、週刊誌の〆切時間15分前という事で入稿作業にバタバタしている所でした。社内には数十人のスタッフがおり、電話をかけたりPC叩いたり非常に忙しく働いている所で、揺れ始めは「あ、揺れてるね」くらいの感じ、何名かが天井を見上げたり窓にかかったブラインドに目を遣ったりする位。ただその揺れが徐々に大きくなり、まるで自分達のいるビルがフライパンの上で溶けるバターのように感じるような、地面がトロトロに溶けてしまったような横揺れに、一瞬、全員が無言になりました。そして次の瞬間、視界がグニャリと曲がり、思わずデスクの縁を引っつかむような大きな揺れに、スタッフの何人かが悲鳴を上げ、揺れが収まるのも待たず、バタバタと建物外に避難していきました。

僕はオフィスの一番奥に席があり、会社から出たのは最後の方でした。うちの会社は1階なので、ドアを出て二十歩も進めば会社の裏口に出ます。そこにはバスケットのハーフコートほどの駐車場があるのですが、そこにはウチの会社のスタッフだけでなく、同じビルにオフィスのある色々な会社の人達、そして向いのビル1階に入った美容師さんたち(散髪中だったお客さんまで)が、既に集まっており、そしてみな呆然と、そして一様に、ある一点を眺めていました。僕も自然と、彼らの見ている方向に目を遣り……そして絶句しました。

そこからはセンシティのビル(地上23階建・高さ107M)が正面に見えるのですが、その高いビルが、左右にグニャリグニャリと揺れているのです。僕たちの立っている場所でも未だ揺れは収まっていませんでしたが、視界の先にあるビルの上階での揺れは、今にもビルがポキリと折れてしまうんじゃないかと不安になるほど激しいものでした。目を凝らしてみれば、ビルの壁にある無数の窓の向こう側で、カーテンやブラインドが狂ったように左右に揺れている。人の姿は見えませんでしたが、あの建物の中では恐らく何百人の人たちが働いていたはずです。

地面の揺れが収まった後もセンシティはしばらく揺れていましたが、やがてそれも落ち着き、僕は地震直後から何度かけても繋がらない携帯電話に苛立ちながら、ネットで情報を得ようといち早く社内に戻ることにしました。駐車場でも多くの人が携帯電話を耳に当てていましたが、回線が繋がった人はほとんどいない様子でした。中にはタバコを吸ったり、同僚と談笑したりする人たちもいました。眼に見える被害もほとんどなく、揺れも収まったことで、多くの人が安心したようでした。ただ、家族との連絡は恐らく誰もとれてなかったと思います。

社内には一人二人のスタッフのみ。机の上に置かれていたヌイグルミが床に落ちている位でほとんど被害はなし。パソコンはもちろん、書類すら落ちていませんでした。僕は席に戻り、変わらず繋がってくれたネットで様々な情報を得、そしてあらためて事態の深刻さに息を飲みました。東北の方はもっと揺れたらしい、という情報は揺れた直後から知っていましたが、M8.8という規模(この時点では8.8で後に9.0に上方修正)がどれほどのものか、よく分からないながらも大きな不安を覚えました。その後、巨大な津波によって、地震自体の被害からは考えられないほど巨大な、深刻な、壊滅的な被害があった事は、皆さん既にご承知のことと思います。

その後も何度か大きな揺れがあり、僕たちはその旅にビル裏口外の駐車場に避難し、そして激しく揺れるセンシティビルを見上げては、どうすることもできずに立ち尽くしました。携帯電話は相変わらず不通のままで、歩いても15分で到着する自宅がどんな様子なのか、妻と娘と愛犬がどういう状態なのかハッキリ分からず(安否は地震直後、かろうじてやりとりできたメールで確認済みでしたが)、非常に不安でした。

しばらく待っても回線が回復しない為、一度家に戻る事にしました。社内というレベルですら情報が錯綜しており、パニックは全くなかったものの、誰もが正しい情報に飢えている様子でした。会社を出て家に戻るスタッフも出始めました。僕は妻への発信を繰り返しながら(回線は完全に麻痺していました)、足早に、しかし落ち着いて、見た目には朝と何も変わりのない千葉の街を通って、千葉みなと駅近くの自宅まで戻りました。途中すれ違った人たちはみな深刻な顔つきをして、無言で、歩いていました。

エレベーターは止まっていた為、階段で7階まで登りました。途中、犬を抱えて下に降りるおばさんとすれ違いましたが、彼女がどこに向かっていたのかは分かりません(まさか犬の散歩でもないでしょう)。7階に辿り着いた時、運動不足の僕の息は既にあがっていましたが、それでも思わず廊下を走り、家のドアの前まで急ぎました。

ドアは開け放たれており、玄関先でバラバラに割れている鏡がまず目に入り、僕は思わず大きな声を出して妻の名を呼びました。返事はなく、僕はブーツを履いたまま割れた鏡をまたいで家の中に入り、物が散乱したリビングを目の当たりにしました。やはり一階だった会社に比べると、7階の自宅での揺れはより大きかったようです。全ての部屋を確認しましたが妻・娘・愛犬の姿はなく、そういえば、と地震直後に届いた妻からのメールに「揺れが収まったら避難します」との文言があった事を思い出し、とはいえどこに避難しているのかは分からず、さらに、彼女らが家に戻ってくる可能性を考えると、携帯電話の繋がらない現状では僕はここに居た方がいいだろうという判断から、しばらく待ってみることにしました。

五分ほどして玄関先で物音がしたので見ると、愛犬・娘を連れた妻が戻ってきた所でした。聞けば近所の小学校の理科室に避難させてもらっていたとの事。ひとまず無事に合流できた事に安心しつつ、鏡の他、多くのグラスなどが割れて危険な状態だった部屋を片付け、テレビをつけて情報収集するとともに、避難しなければならない状況を想定して避難袋(食料、オムツ、固形燃料、毛布など)を用意し、玄関先にまとめました。

その後何度も余震がきて、その度に娘と愛犬を抱えて毛布をかぶるなどの対応をしました。不安はありましたが、基本的には落ち着いて物事にあたることができました。電気・ガス・水道ともに通常通り使用することができ(ガスについては自動停止を自分で解除する必要がありましたが)、普段どおりの生活が可能な状況でした。TVでは今回の地震および津波による悲惨な被害が報道され始めました。阪神大震災始め、これまではそういう天災はどこか他人事でした。しかし今回は、被害は少なかったとはいえ僕らも被災者です。東北や北関東の被害に、本当に心の痛みを感じました。ネットなどに書きこまれた不謹慎な言葉に、本気で憤りを感じました。



ちなみに今回大活躍だったのはTwitter。小説ブログの開設に伴い初めていたTwitterが、テレビやネットニュースなどよりも早い、多視点的な、そして双方向的な情報を与えてくれました。携帯電話が全くつながらない状況で、これほど頼りになったツールはありません。そしてそれは現時点でも同じです。被災地の状況、原発への対応、計画停電、コンビニやスーパーの状況など、(信頼性という意味では慎重に扱うべきものであるのは確かですが)Twitterでの情報収集を積極的に行っています。

ということで、千葉市中央区、千葉市美浜区の震災当時の状況を書いてみました。現在はほとんど普段と変わらない生活を送っています。家族全員無事です。妻のお父さんお母さんも無事です。物資も不足していませんので安心してください。しばらくは色々な局面で不便・不安を感じることはあるかと思いますが、被災地で食べる物すら満足に手に入らない方々に比べたら何の問題にもなりません。僕らはできることを淡々と、とにかく淡々と行うだけです。



最後に、今回亡くなった多くの方々、ご冥福をお祈りします。