『歌うクジラ』村上龍 |   EMA THE FROG

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村上龍『歌うクジラ』読了。


 

iPad用アプリとして発売されて話題になっていた作品ですが、僕は本で読みました。「Ipadなんて邪道、小説は紙面で読むべき」なんて保守的な考えからではなく、単純にIpad持ってないからです。友人の家でiPad版もチラッと見ましたが、全然OKでした。横書きってのも全然OK。つまりは電子書籍賛成。なにより、電気消した部屋の中でも読めるし。


 

肝心の内容はまあよくも悪くも村上龍、という感じ。その発想の突飛さや細部に渡る世界設定には舌を巻くばかり、『五分後の世界』とか『コインロッカーベイビーズ』とかに近いといえば近い、奇抜なんじゃなく「斬新」な視点は健在です(奇抜に書くのは割と楽なんだ)。ただ、一言で言えば、それだけ。その発想や設定を説明することに夢中になりすぎていて、要するに「物語」がないんだよね。ほとんど。


 

もっとも、村上龍はそのことに、つまり物語のない作品であることに自覚的だろう。だからこそ彼は、その場の情景をたただただ説明するだけの「視点」を、わざわざ人間として登場させる。それが主人公アキラだ。アキラは、(ときどき思い出したように自分の感情世界に入り込んだりするものの)作品の中ではほとんど「ビデオカメラ」としてしか機能していない。その場にあるものを高解像度のレンズに映しだすことが彼に与えられた役割であり、それ以上のことは望まれていない。「父親の遺言に従いICチップを老人施設に持っていく」という、作品を貫くいちばんの「目的」でさえ、アキラを常に移動させるための言い訳に過ぎない。


 

村上龍はつまり、説明したかったのだ。自分の創り上げた現実とは違うもうひとつの世界を、そのままの形で、物語などに邪魔されることなく、説明したかった。だからアキラは移動しなければならなかった。村上龍の説明したかったいくつかの場所に、実際に行ってみる必要があった。ただし、アキラはそこで何も起こさなくていいのだ。ただビデオカメラとして、淡々と風景を映すだけでよかった。


 

まあ面白かったですよ。好きか嫌いかでいったら全然好きです。ただ、物語という切り口で見たら、ほとんどそこには何もないです。村上龍ひさびさの長編小説は、ものすごく詳細に渡る「世界設定」だけで構成されておりました。