まんなかなし |   EMA THE FROG

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あらゆる物語は既に語られ尽くしてしまった。まったくあたらしい話は生まれる隙間を失って、現代の作家はだから、これまでに語られた物語のなかのある部分を流用し、あるいは組み合わせ、つまり設定やプロットを「サンプリング」し、「コラージュ」することで作り上げた文字の羅列を、“新しい作品”として出版する。どこかで見たような世界設定、どこかで見たようなキャラクター、どこかで見たような展開、どこかで見たような、いや、実際にどこかで見たことのあるはずの、物語。


あらゆる物語は既に語られ尽くしてしまった。しかしその論調は、作家自身ではなく読書の好きな人達の中で、つまりは「小説マーケット」の中でこそ強く感じるという不思議。小説マーケットを支える熱心な読者たちの中には恐らく、意外なほどたくさんの、「小説家になりたいがなれない人達」が含まれている。彼らはまるで、試験問題集を買うように小説を買い、その傾向と対策を少しでも把握しようと思いながらその文章を追う。そして読み終わり、あるいは読んでいる途中から、口々にこういうことを言い始める。「例の小説だけどさ、構造は誰々のあの作品とおんなじだな。ヒロインは誰々のあの作品にでてきたあいつとソックリだし、そして読んだかいあのラスト!ありゃ誰々のあの作品の丸パクリなんだもんな。あれで“文壇の革命児”なんだってんだからさ、笑っちゃうよ」




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さて、果実の、果肉部分をすっとばして、薄皮から薄皮までテレポーテーションするような展開だけど、要するに重要な部分を事もなげにスキップしてやるのだけど、まあいろいろ考えた結果、ぼくはいま二つのことを思う。ひとつは、「あたらしいかどうかは、大した問題じゃない」ということと、「面白いか面白くないかは、とても大した問題だ」ということ。


そして、だから、ぼくにとっての小説の価値は、つまり、ぼくが読む誰かの小説という意味でも、ぼくがいつか書き上げるかもしれない小説という意味でも、その小説の価値は常に、「面白いか面白くないか」、それだけで判断されていい。そう、果肉部分については忘れて、薄皮から薄皮までテレポート、小説の価値は、「面白いか面白くないか」だけで判断。なぜ?はもう、考えなくていいじゃないか。どうやって?なんてなおさら下品だ。面白かった、よかった。面白くなかった、だめじゃん。それだけ。


あらゆる物語は既に語られ尽くしてしまった?ふうんそうなんだ、そうかもしれないね、そうかもしれないけど、別にそれがなんだっていうんだ、ちなみにぼくは、まあ小説じゃなく音楽の話だけど、サンプリングミュージックもコラージュミュージックも、どっちも好きだけどね。



ということで、わたくし最近は、部活終わりに飲む水のごとく、ゴクゴクと喉の鳴るような勢いで、本を読んでおります。素敵な文章は、精神に水気を与えるのです。その影響はなんと、肉体にまで及び、乾燥激しい部屋の中、指先や脛などはガサガサに乾き粉吹いておりますが、脳味噌擁する額には、上等の化粧水をたっぷり塗りたくったごとき「ツヤ」があらわれております。ぼくのおでこは輝いております。これは恐らく、素敵な文章という水気を吸った脳が、タプンタプンとなっておるからであります。


まあ、さてさて、とりあえず、悪くない気分です。