レゾンデートル 素晴らしきかな人生 |   EMA THE FROG

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    roukodama blog

朝から晩まで(広告の)文章を書き、家に戻ってまた(小説の)文章を書く、という生活を、思えば結構なあいだ続けてきているが、言葉に対する興味や情熱はまるで失速することがない。ゲームや音楽に対するそれと、言葉に対するそれとのあいだには大きな違いがある。一言で言えば、(才能があると自分で思っているとかじゃなく)こと言葉については、妙な「使命感」があるのだ。

ゲームも、音楽も、それを作るスペシャリストが大勢いて、僕は彼らのクリエイティブに心動かされっぱなしだ。「かなわねえなあ」と素直に思い、「すげえよあんたら」と素直に思う。ただ、言葉に関しては、実はそうでもないのである。洋服のデザイナーがよく言う、「世の中に着たい服がないから、自分で作るんです」という言葉が意味するところと、多少は近いのかもしれない。どんな小説を読んでも、僕は素直に「すげえよあんた」と思うことができない。「こんなすげえ作品があるなら、もう俺がわざわざ書く必要はないじゃん」と思えない。

ん~。でも、先に書いたように、自分に才能があるとか、そういう風にも思わなかったりもする。そのへんが、不思議といえば不思議なのだけど、とにかく、妙な「使命感」がある。書かなければならない、というより、書いてもよい環境にあるのに、書かないのは怠慢だ、というような感じが、強く僕を奮い立たせる。

反対側から見れば、僕は思い切り、言葉に、小説に、甘えているのだ。それに挑戦している限り、僕はアイデンティティを実感することができる。それに対する挑戦をストップした瞬間、僕という人間の存在価値が、あっさり消えてしまうとでもいうような、言いようのない恐怖心が、僕を白紙の原稿用紙に向かわせる。だから僕は書く。泳ぐのをやめたら死んでしまう巨大魚のように。車輪を回し続けなければ光を失う、自転車のライトのように。

ああ、素晴らしきかな人生。

言葉という足枷に頬ずりし、
その重さ、その巨大さに恐怖する。
いつか解放されるのを夢見ながら、
解放されることが何より恐ろしいのだ。



【追記】

「書いてもよい環境にあるのに、書かないのは怠慢だ」と書いたが、世の中には、(敢えて例は挙げないが、いろいろな事情で)本当は小説を書きたいのに書くことが出来ない、という人たちが大勢いるのだ。好きな仕事に就けて、好きな趣味を持てて、という環境自体に感謝するということを、僕はほんの最近までしてこなかった。しかし今、僕はなんて幸せだろうと思う。小説に情熱を注げる僕は、なんて幸せなんだろうと思う。だからこそ、それをしないのは「怠慢」なのだ。僕が小説に向かうことを許してくれるあらゆる人達、そして環境を、僕は心からありがたいと思っている。ありがとう。本当に。