『愛はプライドより強く』@ 辻仁成 |   EMA THE FROG

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GW中にご自宅までお呼ばれした友人から(正確にはその彼女から)借りた小説、『愛はプライドより強く』@ 辻仁成を読み終えた。けして読書速度の早くない僕でもトータル3時間足らずで読み終える事ができたのは、ひとつは単純に、文字が少ないからだ。一般的な文庫本の厚さ(2センチ位?)を持ちながら、文字が埋めている面積はたぶん総ページの3分の1にも満たないだろう。長い章でも数ページ、中には1行で終わる章(と呼んでいいものかどうか)もある等、とにかく白紙の部分が多くて、サクサク読める。もうひとつは、これが物語の展開を楽しむタイプの小説ではなく、ジャンル分けすれば恐らく純文学カテゴリにおさまるだろう(よく言えば文学的、悪く言えば退屈な)作品であるという点。伏線と呼べるものもほとんどなく、ただ時系列に従って物事が進行する(あるいは進行しない)様を見ているだけでいいのだから、これはラクちんなのである。

さて、例によってアマゾンよりあらすじを拝借しますと。

<ナナは、「愛している」と、たったひとこと打ち明けるのに、二年もかかったナオトのことを、もう忘れてしまったわけではなかった。しかし、日数なんて問題じゃない、と言いきった鉅鹿の言葉とあの突き刺すようなまっすぐな視線は、それ以上にナナの心を揺さぶりつづけている。迷う男と迷わない女たちへ。愛をとるか。プライドをとるか。辻仁成初の書き下ろし恋愛小説> amazonより

なるほど、このこれを書いたライターには、そういう話に思えたようです。僕は普段、いわゆる恋愛小説(だけじゃなく、恋愛映画、恋愛ドラマ、恋愛ゲームなど恋愛をテーマにしたあらゆる作品)に触れる事がほとんどないので、これが恋愛小説と言うジャンルに属する作品なのかどうかすらわからないのだけど、でも、それを気にせず言うならば、僕にはこの小説に占める「恋愛」の比重など取るに足らないものだと思うけどね。二人の語り部(婚約し、同棲しているカップル。男=ナオトは小説家志望のヒキコモリ、女=ナナは敏腕音楽プロデューサー)が、男と女である必要は特別ないのだ。

この、長い時間を共に過ごす事でお互いの間に漂い始める、どこか懐かしい香りを放つある種の気まずさ、不安、怒り、放心、そういうものは、(恋愛感情のない)男同士女同士だとて必ず訪れるものだし、年齢だって余り関係がない。唯一のポイントは、「長い時間を共に過ごしてきた間柄である」事だけで、そういう関係を表すのに長く恋愛関係にあるカップルという題材は、非常に便利ではある。ただ、それはあくまで便利だから利用したに過ぎないのであって、著者はきっと恋愛そのものを書きたかった訳ではないと思うのだよね。

では、著者が本当に書きたかったものはなんなのか。これは、実際には問うに値しない質問である。なぜなら、答えなど最初から分かっているのだから。辻仁成は、いや、たぶん世の中にいる小説家のほとんどは、みんなあるひとつのことを書きたいがために筆をとる。それは何か。



人間関係だ。
関係、と縮めてもいい。
小説の主人公が人間である必要はないからね。


恋愛小説家も、推理小説家も、歴史小説家も、ホラー小説家も、みんな「関係」を書いている。誰かと誰かの関係、何かと何かの関係。様々な関係を描写する事で、別の何かを表現する?いやいや、僕も今までそう思っていたけど多分違うよ。様々な関係を描写する事で、やっぱり関係を表現するのさ。

さて、冒頭の言い方では僕が『愛はプライドより強く』をどこか馬鹿にしているように見えるかも知れないが、実際にはそうでもない。僕は(友人から借りた本だという点を差し引いても)この作品を読んでよかったと思ったし、辻仁成という小説家が描こうとした(あるいは、結果的に描くことになった)「関係」を、それなりに楽しむことができた。

ナオトとナナというカップルの間にいつの間にか(しかし、実際にはあからさまに)入り込んでくる新しい関係性、違和感や苛立ちや後悔、それらを餌に形作られていく(あるいは、壊れていく)関係性、そして、それに合わせてそれぞれが獲得していく別の人間や別の社会との関係性、そういったいくつもの関係性の生き死にを、著者はこの上なくシンプルな文字でなぞっていく。恋愛も、小説家志望・音楽プロデューサーという設定も、小説内小説というメタな手法も、そして一部の読者からは「夢落ち」だと批判される事にもなりそうなラストも、すべてそれら関係性を表現するための道具に過ぎない。そしてその関係性そのものもまた、実際には(著者が)別の関係性を指向する為のワンステップでしかなかったりもする。

僕は文字を追いながら、一方では自分の人生を考えている。僕だったらここでどんな言葉を吐くだろうか、どんな行動をとるだろうか、そういう物語にリンクする形ではなく、ただ単純に、僕は自由に僕の人生について考える。ああ、明日から仕事だなあとか、小説進んでねぇなあとか、喘息早く治さなきゃとか、ハンナは今日も可愛いなあとか、そんな、ナオトやナナたちの世界とは隔絶した僕の日常を、考える。小説を読みながら、実は何も読んでいない。結局、これがこの小説と僕との関係のあり方。悪くない。

さて、とはいえこの作品をキッカケに僕が辻仁成の小説を本屋の棚から抜き出すことはないだろうし、彼に対する、「中山美穂の旦那で、あんまりステキじゃない歌を歌う歌手、あと何か小説家らしい」という印象にもほとんど変化はなく、かといって読んでよかったという感想にウソがあるわけでもない。まるで名前すらない小川を行く水の流れを、割とだらけた姿勢で3時間見続けたような気分だ。僕はそして立ち上がり、パンパンと尻をはたいてまだどこかに向かう事になるだろう。数分後にはその小川の事はすっかり忘れてしまう。

しかし、そういう記憶ほど、つまり、特別な印象のない記憶ほど、意外と長い間あたまン中に引っかかってたりするもんなんだ。積極的に思い出される事も、また、忘れ去られようとする事もなく、ずっと干されたままの洗濯物のように、その裾がハタハタとはためく様子に、なんの注意を向ける事もなく。



追記:

毎日毎日原稿用紙に向かい、数ページ書いては「イメージと違う」と言ってその原稿用紙をぐしゃぐしゃと丸める生活を続けるナオトに、そういえば僕は何の感情移入もしなかった。同じような経験は僕も幾度となく経験していて、だから気持ちが分らないわけではないけれど、その「書けない」様子を実際の小説の中でこうも延々に提示されると、(それが物語にとって必要な描写だったのだとしても)僕はちょっとウンザリする。小説家は、書く以上に於いて小説家だ。書けない小説家は、もう小説家じゃない。ここで言う「書く」というのはもちろん、「作品を完結させる」という事が最優先事項として含まれている。これが難しいのだよね。つらいのだよね。わかるけどさ。