蝉と鯨とバッタ / 『グラスホッパー』伊坂幸太郎 |   EMA THE FROG

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先日仕事で新橋まで行く事になり、千葉駅構内にある本屋で伊坂幸太郎『グラスホッパー』を買った。新橋に行って、千葉に帰ってくるまでの2時間の電車の中で、文章を読むのが決して速くないこの僕でも、半分ほどを読み終えた。それから2日、トイレの中と、キッチンの換気扇の下でタバコを吸う、たぶん合計で1時間半くらいで、残りの半分も読み終えた。

巷で人気の伊坂幸太郎。そういう理由で、僕は同時に2つのことを思う。1つは、「たぶんサクサク読めるんだろうな」。もう1つは、「そこそこ面白いけど、そこまで面白くないんだろうな」。

果たしてそれは2つとも正解だった。僕がこれまでに読んだ伊坂の作品は『アヒルと鴨のコインロッカー』と『重力ピエロ』の2つだが、そのどちらも、今回読んだ『グラスホッパー』のリーダビリティ(って言うんでしょ、読み易さのことを)にはかなわない。読み易いなんてもんじゃない。ちょう読み易い。「これはもう、なんていうか、読まなくたっていいくらいの読み易さだ!」と感心したくらいだ。事実、所々読み飛ばしたところで、特に問題はなさそうだった。読者に丁寧な伊坂さんは、きちんと筋が追えるような文章を、あるいは、読者が忘れてしまいがちな出来事を思い出させてくれる文章を、いたるところに配置してくれているから、安心なのだ。やさしい。いやったいくらい、やさしい奴だ。

もう1つの予想も、当たった。この『グラスホッパー』というのは、蝉という名の殺し屋と、鯨という名の自殺させ屋と、あさがおという名の押し屋との間で起こるゴタゴタに、鈴木という普通の人が巻き込まれる(というか、首を突っ込む)という話で、やはり、そこそこに面白く、そして、そこまでは面白くない小説だった。

ただし、読み易さとそこそこの面白さのせいで、僕は結局、2日という短時間でこの中編小説を読み終えた。それは事実なのだ。「この先どうなるんだろう」と、ページをめくるのが楽しみだったし、「早く終わんねぇかな」ともちょっと思ったりもしていた。まあ、500円くらいで買った娯楽としては、充分元は取った感じはする。しかし、もしこれが1000円だったら、ちょっと高い買い物だったかな、と感じるかもしれない。それくらいの感覚。比較対象としてはどうかと思うが、ハマりにハマったCALL OF DUTY 4というゲームなんかは、数百時間にわたって僕を楽しませてくれたわけで、100回分くらい元を取った感じがする。まあ、そういう感じだ。

で、今回こうやって『グラスホッパー』の感想を書くにあたり、ちょっとアマゾンのレビューを斜め読みしてみたのだけど、全体的に高評価である事は間違いないのだが、なんか、所々に「ダーク」「重たい」「グロテスク」「暴力的」みたいなワードが登場していて驚いてしまった。いやいや、この作品のどこが重たいのよ。どこがグロテスクなのよ。僕はそう感じながら、僕自身が重たいと感じた小説――例えば、『疾走』とか『ゴールドラッシュ』とか『ライン』とか――を思い返して、うん、やっぱりさあ、と思う。やっぱりさあ、この小説はどこも重たくないし、ダークじゃないし、むしろそういうのを、避けて書かれているように思うけど。

と、考えたのだが、よくよく思えば、レビューを書いた方々が指しているのは、どちらかというと「扱ったテーマ」みたいなものかもしれない。殺し屋が人を殺したり、自殺屋が人を自殺させたり、押し屋が人を交通事故に遭わせたり…といった出来事自体は、確かに重いし、暴力的だ。うん、確かに。

一方、僕が判断基準にしているものは、文体とか、世界観とか言われるもので、要するに、扱うテーマを「どう表現するか」の部分。つまり、この見方をすると、作品の中で誰ひとり死ななくても、誰ひとり殺されなくても、「暴力的でグロテスクな書き方」さえすれば、それはやはり、暴力的でグロテスクな小説になる。例えば、前に芥川賞をとったモブ・ノリオ『介護入門』。僕の中でそれは重くてダークな小説だが、作品中で行われる暴力のほとんどは、主人公の「頭の中」で行われるイメージに過ぎない。

ああ、ああ、なるほどね。なんだかちょっと分かってきたよ。つまり僕にとっては小説は「文字」なんだな。文章の繋がり、文字列。その文字によって「喚起される」イメージというよりは、その文字が「直に放つ」イメージを楽しむ、それが僕の小説の読み方。極端に言えば、そうなるなあ。どうなんだろう。それ。

関係ないけど、蝉とか鯨とか、なんか名前の付け方が村上春樹に似てる気がします。『1Q84』に出てくる(らしい)、青豆(あおまめ)というのと同じセンスを感じます。