ビレバン / 『知的創造のヒント』外山滋比古 |   EMA THE FROG

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ちょっと前から僕の部署では「半シフト制勤務」みたいなものがスタートして、要するに水曜木曜だけ早番と遅番というのができたわけです。これが、慣れないからよく出社時間を間違えるわけです。ついこないだも、普通に9時に出社したら同僚に不思議な目で見られ、聞けば「今日、11時出社じゃないの?」とのこと。

という事で顔を赤らめながら社外に出て、出たはいいけど朝の9時、コンビニくらいしか開いてやしない。会社の傍にスタバがあるにはあるのだが、あんなスイーツな店、特にコーヒーが好きなわけでもない僕には行く理由がない。というより行きたくない。スタバで時間を潰す自分、というのがなんか恥ずかしい。柄じゃない。

行き先を決めずに歩き始めた。京成線の高架をくぐり、ナンパ通りを過ぎ、芳川公園駅の脇を抜けて、気がつけばパルコの前。「あ、そういやパルコにはビレバンがあったなあ…」とボンヤリ思い、他に行きたいところもなかったので、生まれて初めてパルコのオープン待ちをした。あたりまえだけど、ちゃんと10時ピッタリに開くのな。パリっとしたスーツ着た兄ちゃんが、「お待たせいたしました」と、一番乗りに店に入ってきた僕に深々と頭を下げた。うわ、なんかすみません。

という事で平日朝っぱらからビレバンにインザハウス。今日初めてのお客さんだぜ頭が高い……どころか、店員以外には誰もいないビレバンはなんだか落ち着かず、何だかコソコソしてしまう。

知らない人も多いかと思うんでちょっとビレバンの解説をしますと、正式名称はVILLAGE VANGUARD(ヴィレッジヴァンガード)。「遊べる本屋」なるキャッチコピーのもと、小説、マンガ、雑誌、CD、雑貨、洋服、バッグ、靴、アクセサリーなんかを、テンション高めに陳列して販売する、まあ言ってみれば「若干オシャレなドンキホーテ」みたいなもんです。

初めて入った人はその「物の多さ」に驚くかもしれないなあ。擬音で表わしたら「ビキビキ」「ガシャガシャ」「ギチギチ」「ギャイギャイ」という感じか。特徴的なのはそのPOP(手書き広告)で、かなりの数の商品にはハガキ大のPOPが貼ってあって、一応コピーライターの端くれでもある僕が見ても「これは!」と思う、秀逸なコピーが目白押しなんですね。

↓気になる人は、このへんとか見てみると雰囲気わかると思う↓


<自分で書いちゃえ!ヴィレヴァンのPOP>
http://vgvd.jp/vv/html/school_of_pop/011.htm

東京の下北で知って以来、僕はずっとこの店のファンなんです。この店、先ほど触れたように様々なジャンルの商品を取り扱ってはいるものの、「遊べる本屋」だけあって、本の品揃えもマニアックでいい。サブカルというのか、エログロナンセンスというのか、太宰治から渋澤龍彦、石丸元章やら夢野久作なんかまでしっかり揃っているし、『拷問大全』や『ギーガー全集』みたいな素敵な図鑑から、マンガなら僕も大好きな『レベルE』とか『ヒミズ』とか、とにかくそのセレクトセンスが素晴らしい。図書館やら大型書店やらに行って、借りたい(買いたい)本を探すのに一苦労、なんて事はこの店ではありえない。もしも無限の時間があったら、この店に置いてあるすべての本を読破したい。そう思うくらい、センスがいい。

んでちょっと調べてみたら、この店、全国に362店舗もあるんですね。バイト含めると従業員は実に2300名、売上高は332億円!?うわ、んなデカイ会社だったのかよ。つうか一番驚いたのは、本社所在地/愛知県愛知郡長久手町大字長湫上鴨田12番地1。長久手町!僕、地元愛知県なんですよ。愛知の会社だったんだ。知らなかった。

という事で前置きが長くなりましたが、出社時間を間違えたおかげでしばらくぶりにビレバンで楽しい時間を過ごしまして。で、お土産というか何というか、先日も何度か触れた外山先生の『思考の整理学』の続編なんでしょうか、『知的創造のヒント』というのを発見したので、買って帰りまして。

それでツラツラと読み進めているのだけど、外山さん、やっぱり面白いです。『思考の整理学』と内容がかぶっているんだろうなあ、と思いながら読み始めたんだけど、まあ実際かなりの部分でかぶってはいるのだけど、比喩の方法が全く違っているのには驚いた。同じ話なのに、例えるものが違うだけで、こんなにも新鮮に見えるもんなのか。欧陽修の「机上、枕上、厠上」の例えは今回も健在だが、それがあるからなおさら、他の新しい比喩が輝きを増すようにも思う。

もちろん新しい話も多くて、その「比喩」についての考察が非常に面白い。例えば子供というのはよく「詩的な表現」をするものだが、それが大人になるとなぜできなくなるのか、という問いに対して、外山先生は「それは比喩をしなくなるからだ」と言う。つまり、子供はそれを表す適切な単語を知らないからこそ、それを(既に知っている)別の言葉で置き換えようとする。それがユニークな表現に繋がるのだ、というわけ。

思えば、小学校低学年の作文の授業の中で、僕は「食パン2枚分の厚さの本」という表現を使ってえらく褒められた記憶がある。その頃の僕はたぶん、「5センチ」という言葉を知らなかったのだと思う。だから何とか他の言葉でその本の厚さを伝えようとした。5センチの物体が思いつかずに、僕は食パンを「2枚」使う事を考えたのだ。むしろそれは、苦渋の選択とも呼べるものだ。大人になって「5センチ」を知った僕は、本の厚さを表すために頭を悩ます必要がなくなった。それどころか、本以外のどんなものの厚さだって、僕は数字で表す事ができるようになった。これは進歩である。大人はそうして、進歩していく。確かにこれは、進歩ではあるのだ。

ただし一方で、僕らは比喩する能力を失っていく。そして、正確だが面白みのない言葉ばかりを使うようになる。これじゃ面白くない、と、言われてみれば確かに思う。いまの僕から「食パン2枚分の厚さの本」という表現は出てこないだろう。だって、いまの僕は「5センチ」という便利な言葉を知っているからね。

ということでここからは単なるこじつけですが、そんな中でも唯一正確な表現が生まれづらいもの、つまり、意味と対象がすっきり一対にならないもの、それが「感情」ってものですね。寂しい悲しい嬉しい楽しい、いまある感情を表すそれらの言葉も、あらためて考えてみればひどく抽象的だ。寂しいっつったってその寂しさの内容は無限にあるだろう。楽しいと言ったってどう楽しいのかは分からない。「5センチの本」という表現が誰の頭にも「5センチの本」を思い浮かべさせるのと比べると、感情を表すそれらの言葉がイメージさせるものは人によってバラバラだ。
つまり、感情を表す言葉にはまだ、比喩的表現を受け入れるだけのスペースがある。

そしてつまり、感情を比喩的に表現したもの、そのひとつが「小説」なのだ。300ページの小説は、表すのに300ページかかる、感情の、比喩、なのだ。

僕は昔から、「この小説で言いたかった事はなんですか?」みたいな質問を作家にするインタビュアーが大嫌いだった。軽蔑していた。僕ならこう答える。「それを一言で言えるなら、僕は小説なんて書かかなかったでしょう」と。つまりその小説=感情を表すのに、300ページなら300ページ分の比喩表現が必要だったという事なんだ。一言で言えるならば、つまり、一言で言い換えれるならば、それは既に比喩的表現を必要としていない。今すぐその小説の流通を止めて、その便利な一言
を、正式な、正確な表現として啓蒙していけばよい。

小説家は、それを表す言葉がまだ世の中に存在しない感情を、必死になって別の言葉で翻訳しようとする、社会的な職業だ。あるいはその働きが、世の中から比喩表現を「減らして」いくのだとしても、それは仕方のない事だろう。それに、こと感情に限って言えば、比喩表現が一切なくなることは未来永劫ないだろう。それほどに感情には無限のバリエーションがあり、だからこそ、大人になってもなお、詩的な比喩表現が可能なのである。


とはいえ、何百年、何千年あとには、世の中にあるすべてのものに一つずつ正確な名前がつけられ、一切の比喩表現がその姿を消しているのかもしれない。そうなる前の、つまり、比喩表現が許される言葉がまだ残っているうちに、僕らが生きていられるのはラッキーだと思う。だって、ユニークな言葉を生み出せるのって、楽しいからね。