龍と豚  / W・ゴールディング著『蝿の王』 |   EMA THE FROG

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先日も触れた、W・ゴールディング著『蝿の王』読了。後半4分の1くらいの所から、それまでのらりくらりとしか進まなかった物語が一気に進み、失速することのないままエンディングへ(むしろその緊迫感はエンディングまで高まり続けた)。ハンナが既に眠った夜中、僕はひとりキッチンの照明を頼りにページをめくり、そしてひとりで読み終えた。そのとき、僕はまるで激しく運動した後のような疲労感を感じ、裏表紙を閉じてなお頭から去ろうとしない無人島の景色、あるいは灼熱の太陽、あるいは崖から落下し弾けたピギーの頭蓋、そういうものをしばらくのあいだボンヤリと眺めた。喉がひどく乾いていると感じたのは、さすがに気のせいだったのだろうか。


こんな風に、読み終えてなお自分の意識を束縛し続けるような小説は久々だ。そして僕は、いつでもそんな小説を求めていたのではなかったか。つまり、読む前と、読んだ後では、自分の中の「何か」が変わってしまうような作品を。ゴールディング自身この小説を「寓話」だと言っているが、確かに僕は何か大きな「教訓」を得た気がしている。人間は生き物だということ。恐怖は暴力を生むということ。「獣」は常に人間の頭の中にいるということ。偶然が悲劇を生むということ。大人だって実際には「大きな少年」に過ぎないこと。そして、僕は人間であるということ。


とにかく、読んでよかったと心から思える小説でした。でも、もしこの作品が現代に発表されていたとしたら(この作品は1950年代のもの)、たぶん売れねえなあ。文章自体はシンプルで簡単だけど、物語運びのテンポはスムーズだとは言えないし、翻訳もの独特の(つまり海外小説独特の)文体・リズムみたいのはある。あまり知らないが伊坂幸太郎みたいなんが好きな人は受け付けない気がする。逆に太宰治とか好きなら合うかもなあ。う~ん、それもちょっと違うか。でもいいよ、読んでみた方がいい、特に、(巻末の解説にも書かれていたが)この作品に出てくる「少年」を子供に持つ親は。子供は、天使なんかじゃないんだぜ。悪魔にだってなるんだ。それはすべて、環境や状況で決まる。


あと、物語の随所であのパニック漫画『ドラゴンヘッド』を思い出した。思い出したというより、作者の望月峯太郎は、この『蝿の王』からかなりのアイデアを得ているはずだ。顔に塗料を塗って槍を振り回すジャックはノブオを思い出すし、ピギーの「僕にあだ名をつけてもいいけど~」といったセリフもまんま同じだ。「豚を殺せ!喉を掻き切れ!」と歌いながら踊る狩猟団は、世界が崩壊して集団ヒステリーになったグループとかぶるし、「獣」に恐怖しつつもどこかでそれに「惹かれて」しまうラーフの心理は、主人公テルも経験していたはずだ。ドラゴンヘッド(=龍頭)というタイトルの由来が漫画の中で明かされていたかは記憶にないが、『蝿の王』の中で「蝿の王」と呼ばれたのが「豚の頭」だったこと無関係とは言い切れない。でも、だからなんだと言うつもりはない。パクリだとか言うつもりも全然ない。思ったのは、「やっぱり、面白いマンガを描く人はこんな昔の小説も読んでんだなあ」ということ。


今日あたり、たぶん『死者の書』という小説が家に届いているはず。折口信夫。ノブオじゃないよ、シノブだよ。