力のある小説 / 『蠅の王』 W.ゴールディング |   EMA THE FROG

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    roukodama blog

Wiiスポーツのやり過ぎで筋肉痛だよ。まさかゲームで筋肉痛になるとは…いやはや時代も変わったなあ。


という事で久々ですが、元気にやっています。ここに来てハンナの成長スピードも若干スロウダウンしたかな。目を遣れば自力立ちしているような感じですが、それでもまだ自力歩行はできませんし、言葉のバリエーションもそれ程には増えてない。ま、健康であればそれでいいんです。相変わらず寝起きも寝付きもいいし、常にニコニコ元気一杯、ごくたまに便秘気味(といっても2日くらい)になれども基本的には便通も快調、Lサイズのおむつから溢れんばかりのくさ~いウンチで、僕らを驚かせることもしばしばです。


話は変わり、読書です。少し前からウィリアム・ゴールディング著『蠅の王』をダラダラ読んでいます。映画化もされた有名な小説だから、知っている人も多いかもしれない。無人島に取り残された少年たちの話で、『十五少年漂流記』のパロディとも言われますが、僕がこの作品を読むきっかけになったのは、むしろ「アナタハン事件」でした。アナタハン事件というのは、戦時中アナタハン島という無人島に集まった数十人の男たちが、一人の女性を取り合って殺し合いする話(というか実際の事件)です。


↓興味ある人はこのあたりをどうぞ↓
http://www.nazoo.org/distress/anatahan.htm


やっと物語の中盤にさしかかったあたりなので、この本の宣伝文句としてよく見る「凄惨」「極限状態」「殺戮」みたいな印象には至っていませんが、それよりむしろ、活き活きとした情景描写に感心します。肌を焼く太陽の温度が伝わってくるほどの、簡潔で、直接的で、それでいて想像力に富んだ描写。まるで自分もその場にいるような気分になります。で、物語はあっちへこっちへ、妙におぼつかない感じで進んでいくのだけど、その不安定さこそが、少年というのが大人とは「別の生き物」であることを強烈にアピールしていて面白い。子供っつうのは確かに、この小説の登場人物のように(あるいはこの文体のように)、非論理的で、感情の起伏が激しく、気まぐれで、自由なものだ。ゴールディングがどの程度それを意識して書いたのかは分からないが、作品全体から漂うこの「計算されていない感じ」には、むしろ非常な計算高さを覚えます。やるなあ、ゴールディング。


並行して、平野啓一郎の『小説の読み方』というのも読んでいる。平野は1998年に『日蝕』で芥川賞を受賞して以降、芥川賞作家には珍しく結構たくさんの小説を書いて、評価されている。実は僕は彼の小説をどれひとつとして読んではいないのだが、アマゾンのレビューなんかを見る限り、直木賞系の作品を好む読者からも高評価を得ているようだ。偶然見た彼のインタビュー映像からも、彼がエンタメ系の読者からも支持されるのが、彼の作品の根底にキッチリとした「読者への意識」が敷かれているからだと感じる。端的に言ってしまえば、彼は“もともと”エンタメ気質の強い人間なんだろう。読者を楽しませることを、自然に大切にしている。たぶん。


で、『小説の読み方』というそのままズバリなタイトルの本作ですが、さらりと読めます。それほど面白くはないけれど、つまんなくもないです。詳しくは触れませんが、小説を「メカニズム」「発達」「進化」「機能」の4つの視点から読み解くという話は、なかなか参考になった。斬新だし、確かにそういう読み方をすれば、そうしない場合に比べて、ずっと多角的で奥行きのある感想を持つことができるだろう。ただし、この手の作品(具体的な小説を例にあげて、この部分はこういう事を言っているのだ、こういう事がほのめかされているのだ、という批評的?なスタイルを持つ本)を読むといつも感じる、「いやあ、それはさすがに深読みし過ぎなんじゃないの?」といういささかシニカルな印象は、やっぱりこの本からも感じる。まあ、大なり小なりそういった独自の読み解きができないと、こういう作品は書きようがないわけだけど。


思えば、ここで先に挙げた『蝿の王』の話もそうだ。少年独特の不安定さを強調する為にゴールディングはわざとああいった文体を選択したのだという意見は、僕という読者が無責任に「想像した」ものでしかなく、それが事実かどうかは分からない。深読みかもしれないし、むしろそれでは読みが浅いのかもしれないし、まったくの見当違いの可能性だってある。ただ何れにせよ、そういう見方ができることで、より小説を深く楽しむことができるのは確かだろう。


ちなみに本書の中で平野は、情報が氾濫する現代社会に小説は必要とされているのか?という自問に対し、「もちろん必要とされている!」と答えている。僕はこの一言に思いのほか救われた。そして、救われたという気持ちを自覚した時、自分が小説の力を疑っていたことに気づく。昔なら、それこそ冷笑的に「小説なんて誰も読まないよ。当然だよ」と傍観者決め込んだだろうが、でもいまは、「では力を発揮する小説とはどんな小説なのか、そしてどう実現するのか」というところに意識が向く。僕は小説を疑いつつも、まったく諦めてはいないようだった。そんな自分が少し誇らしくもあり、また、いい意味で滑稽であったりもする。力のある小説を書くためになら、そんな自分の滑稽さだって利用する。それでいいじゃん、とか思う。