「僕」の旅は、何万年も続いた。 |   EMA THE FROG

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勝ち組・負け組、という言葉もいつのまにか死語となりまして。とはいえ、生物学的な観点から考えたとき、いま生きている全員が「勝ち組」であることは間違いない。でっかく見れば、原始生物から魚や昆虫になり、猿を経由し人間にまで進化してきたこの長い長い時間の中で、その血筋が「一度も途絶えていない」ということだから。弱者が自然に淘汰されていくことを考えると、ここまで残っている僕らは確実に「強者」であり「勝ち組」だ。

でもまあ、自分が(生物学的に)勝ち組だからといって、「iphoneがどうやらドコモから発売されることはないらしい、困った」というような類の悩みが解決されるわけではないし、ひとつ間違えば、「俺は勝ち組のはずなのに就職が決まらない、おかしい」というような、とんちんかんな事を考えてしまう危険もある。基本的に勝ち負けというのは相対的なものだから、生きている全員が勝ち組ということは、要するに「誰も勝ち組ではない」ということでもあるわけで、まあ別段あらためて考える必要もない話なんだけども。

でも、自分にはものすごくたくさんの「祖先」がいる、と考えるとそれはそれで面白い。僕の祖先は、江戸時代にもおり、平安時代にもおり、もっと昔の、弥生時代とか縄文時代とかにもおり、あるいは人間が人間になる前の時代にもおり、恐竜の時代にもおり、要するに、地球が生まれてからの長い長い時間の「すべて」に、僕の祖先は生きていた。

僕の知っているのはせいぜいひいおばあちゃん位なのだけど(それも、あってないような記憶だ)、そのひいおばあちゃんにもひいおばあちゃんがいて、そのひいおばあちゃんにもまたひいおばあちゃんがいて、とにかく今自分に流れている「血」は、(途中さまざまに混ざり合いながらも)気の遠くなるくらいに長い時間、受け継がれてきているわけだ。

んでね、僕にも娘が生まれたわけです。生まれた、じゃないな。嫁が必死で、生んでくれた。つまり、僕はラッキーな事に、「血」を次の世代に受け継いでもらう事ができたのです。別に、達成感とかそういう類の気持ちじゃないし、「これで俺も御先祖さまに顔向けできる」みたいな事も全然気にしない性質(たち)だし、でもなんか、素敵なことだなあと思います。ロマンを感じるね。

考えてみれば、僕は、僕らは、長くても100年くらいしか世の中を見る事ができない。でも、「血」をひとつの生き物だと考えたとき、僕は、僕らは、この地球のすべてを見てきたのだった。そしてその血が絶えない限り、新しい「僕」はこの先もすべてを見ていくし、その未来の「僕」はきっと過去の歴史に想いをはせて、むかしの「僕」が見た景色を夢見るに違いない。100年後の「僕」は、100年前の、今これを書いている僕のことを考えるだろうか。考えて欲しい、と思う。そしていまの僕が100年前の「僕」のことを考えてそうするように、少しのあったかさと、少しの興奮と、少しのせつなさを感じてくれたらいいと思う。

SFでもない、ファンタジーでもない、しかし現実だと考えるには壮大に過ぎる長い長い「僕」の旅は、ハンナという新しい命を得てまたひとつその道を伸ばした。このさき僕が老人になり、自らの目や耳で物事を感じることができなくなったとしても、ハンナがいるならそれでいい。僕はハンナの目と耳で、血で、いろいろなものを感じよう。かつての先祖が、きっと僕の目や耳を使ってそうしたように。

ということで今日は僕の父親の誕生日です。父親がいなければ僕もハンナもいませんでした。旅は続きませんでした。という事でおめでとう。そしてありがとう。


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