臓器移植法改正 |   EMA THE FROG

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昨日の夜、嫁の好きな「リンカーン」を見終えて、さてそろそろゲームでも…とPS3の起動を待っている間、テレビに映るニュース番組をなんとなく見ていた。話題は「臓器移植法改正」に伴うあれこれ。全く知らなかったのだが、「脳死を人の死」と認めるか否かで、今国会では激しい議論がなされているらしかった。

画面にはまず、とてもカワイイ顔をした男の子が映り、彼の心臓機能には障害があり、半年以内に臓器移植を受けられなければ死んでしまう可能性が高い事を告げる。そして場面は彼の父親らしき真面目そうな男性のインタビューに移る。

<臓器移植法改正によって「脳死は人の死」と法律的に決定されれば、ドナーが見つからず死の淵に立たされている息子のような人間が、より多く救われる事になる。息子が臓器移植を受けられるかは分からないが、私達のようなつらい想いをこれ以上誰かに感じて欲しくない。そもそもこのA案(脳死になった時点で、その人物が「死亡」したと見做す案)は日本以外の先進国ではスタンダートな考え方で、既に成熟したシステムとして機能しているんです…>

冷静なトーンで、それでも切実な表情を浮かべる彼の話を聞きながら、僕は隣の和室で蒲団に寝かされている、もうすぐ6ヶ月になる娘の寝顔を眺めた。彼女がテレビの男の子のような境遇にあったならば、と想像して息苦しくなった。僕はPS3のコントローラーを床に置いた。全く、他人事ではないニュースだった。

やがて画面は男の子の母親を映した。記者会見の場なのか、黒いスーツ姿で切々と語る母親の疲れた顔には、悲しみと絶望と、そしていくらかの怒りがあった。<どんなに望んでも私はあのこと代わってあげられない、適合しないから私の心臓をあげるわけにはいかない>そう彼女は言った。僕は彼女に同情した。半年後に息子が死ぬと分かっていながら、ドナーが見つからないせいで、あるいは手術費用が高すぎるせいで、あるいは法律のせいで、彼女は自分の子供を救うことができないのだ。僕はこの時点で、「脳死は人の死」と認めた方がいいんじゃないか、と思うようになっていた。それで多くの命が救われる事になる、それは素晴らしい事というより、当然の選択なのではないだろうか、と。

画面は変わり、ベッドに寝かされた別の子供が映った。目はほとんど閉じ、手足がダランと弛緩し、鼻には半透明のチューブが差し込まれており、一目で障害者だと分かる子だった。その子を介護する母親の様子がしばらく映され、やがて先程と同じように、母親のインタビューに場面は移る。

<A案には賛成できません。脳死が人の死だと認められたら、既に脳死状態にあるうちの子はどうなるんでしょう。まさか法律ができた瞬間に「死体」になるんですか?ありえません。あの子は生きてるんですよ>

僕は衝撃を受けた。そして、自分の浅はかな考えに自己嫌悪になった。そうなのだ。世の中には既に多くの脳死者がいる。これまではその死を決定するのは、本人の持つドナーカードか家族の判断だった。つまり、その人がドナーカードを所有しておらず、家族が「この人は生きているんです」と主張すれば、脳死状態であってもそれは「生きている人間」だと(法律的にも)見做された。もちろん、臓器移植の順番を待つながいながい列を見て、つらい選択をした家族もあっただろうが、何れにせよその選択権は本人、あるいは家族にあったのだ。少なくとも、これまでは。

しかし、「脳死を人の死」だと法律で決定してしまえば、その選択権は失われる。医師が脳死だと確認した時点でその人は「死亡」したと見做され、ドナーカードがなかろうと、家族が何を言おうと、それが覆る事はない。なにしろ「法律」だ。A案を通すなら、例外を認めるべきではない。脳死した時点で死亡、このルールはどんな事情があるにせよ守るべきだ。そうすればこれまでよりもずっと多くの「使える臓器」が、臓器移植を切実に願う患者のもとに運ばれるようになり、結果、多くの人が救われる事になるだろう。

だが一方で、既に脳死状態にある人物、あるいはこれから脳死状態になる人物、そして特にその家族にとって、この法律改正(なのか改悪なのか)は文字通り生死を分ける決定となる。先に触れた母親の「法律のせいでこの子は死体になるんですか!」という言葉からも、その決定の意味の大きさがうかがえる。もしも自分の子供が同じ状態にあったら…あるいは自分の家族が、友人が、とにかく死なないで欲しいと感じている人が脳死状態になって、法律の変更によってその命を奪われてしまうとしたら…、僕はこのお母さんと全く同じ事を思うだろう。いや、もっともっと取り乱し、怒り、悲しみ、半狂乱となるに違いない。だって、子ども自身は昨日と何も変わらないのに、法律が変わったので娘さんは死にました、なんて言われてまともで居られるか?無理に決まってる。これは殺人だ。法律による、殺人だ。僕は必ずそう思い、法律を、あるいはそれを制定した役人を、それを受け入れた国民を、そしてもしかしたらその改正を望んだ、臓器移植を待っている多くの患者さんたちをも、憎むかもしれない。

冷静に考えてみても、僕はどちらの意見が正しいのかわからない。しかし、彼らの意見がこの先もずっと平行線であることは分かる。彼らが意見を違えるのは、もう、かなしいくらいに当然の事なのだ。そして、脳死を死と捉えるか生と捉えるか、結果どちらの案が採用されるにせよ、その裏側で打ちひしがれる人々は絶対に存在するという事実。打ちひしがれる?そんな言葉じゃ足りない。はっきり言う。どちらの意見が採用されるにせよ、それが原因で「死ぬ」人々がいるのだ。脳死を「死」と認めてさえいれば救われていた人間が死に、脳死を「生」と捉えることで生きていられた人間が死ぬのだ。

なんてことだ。
なんてことなんだ。