メタ |   EMA THE FROG

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    roukodama blog

久々に本の事でも。

今読んでいる舞城王太郎の『九十九十九』(つくもじゅうく)という小説の魅力は、物語そのものよりもむしろその構造にある。清涼院流水とかいう人の作ったキャラクターを使って舞城が小説を書いたという企画らしいけどそれは置いておいて。小説は始まり第1話は終わる。ここまでは別に普通だ。しかしここからが面白い。第2話が始まりその途中で「第1話」が第2話の主人公のもとに届けられる。つまり第1話というのは『九十九十九』という「小説の中で書かれた小説」だと言うわけだ。第2話の主人公は第2話の中で「第1話」という小説を読む。第3話が始まり、今度は「第2話」が届く。第3話の主人公は第3話の中で「第2話」という小説を読む。つまり「小説の中で書かれた小説」である第1話を主人公が受け取る第2話もまた、第3話を読むにつれて「小説の中で書かれた小説」であったという事が判明するわけだ。このメタ的(というのかな)な構造は4番目の章で若干の変化を見せる。その章の中には「第4話」についての記述が当然のように現れる。一見何の問題もないように見えてこれは大きな衝撃だ。なぜなら、これまでの流れでいくなら「第4話」という小説は第5話の主人公の手元に届けられるもので、第4話の主人公は第4話という小説の存在を客観的に語ることができないはずだからだ。第4話の主人公は自分のいる世界が「小説」なのだという事に気付けるはずがなく、それは第4話が別の第三者の手元に「小説」として存在して始めて「小説」であると認識できるものだ。しかし4番目の章の中では当然のように小説としての第4話が語られる。これは不思議だ、と思いつつその章のタイトルを見て僕は「なるほど」と思う。4番目の章のタイトル、それは「第5話」なのでした。

とか何とか、まだ僕は4番目の章である「第5話」の途中までしか読んでいないのでこの先どうなるかは分かりません。ただとりあえず、文章そのものよりも構造を楽しむ、というこの読書体験は非常に新鮮で、ちょっとハマりそうです。


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