ビバ、文学青年。 |   EMA THE FROG

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高橋源一郎「日本文学盛衰史」を読んでいるせいで、田山花袋、島崎藤村、二葉亭四迷、国木田独歩といった、明治期に活躍した作家さんたちにちょっと興味を持つようになった。彼らの作品には青空文庫(著作権切れの作品をインターネット上で無料配信している素敵なサイト)などを通じて多少触れる事ができるのですが、個人的にはその作品そのものよりもむしろ、言文一致、自然主義、露骨なる描写(これは花袋だけか)というような「執筆スタイル」に、または彼らがそういうスタイルに到達する経緯、というようなものにこそ惹かれたりします。

それぞれを簡単に説明しますと、

【言文一致】
それまで使用されていた文語文(「天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆同一轍ニテ」…みたいなやつ)にかわって、日常語を用いて口語体で書かれた文章。またはそういう文章を書く事を主張し、実践した運動。あくまで日常語を用いる、という意味で、話した通りに文章を書くという事ではない。二葉亭四迷の『浮雲』からはじまったとされる。

【自然主義(文学)】
自然の事実を観察し、「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する姿勢、または作品。代表的なものに藤村『家』『新生』、花袋『田舎教師』などがある。物事を見たまま、感じたままに書くということが、著者自身を主人公にして、その想いを余す所無く「告白」するという形式に繋がっていく。女弟子への想いを赤裸々に綴った花袋の『蒲団』などは、その主人公の姓を花袋と同じ「田山」にするなど、自分自身の想いを描いた作品である事を隠すどころかアピールしている。言ってみれば露出狂的文学ですな。

【露骨なる描写】
その花袋が発表した論文。ありのままを、ありのままに書くという、自分の作品を貫く論理を明らかにしようとしたもの。

で、『日本文学盛衰史』の中にはなぜかその田山花袋がAV監督になる、というエピソードがある。もちろん題材は小説『蒲団』。しかし花袋はAV撮影のなんたるかを全く知らない素人であり、ピンという名のAV経験豊富な人物に様々なアドバイスを受けつつ撮影を始める。が、「AVなんすから、難しい事考えないで適当でいいんですって」という、あくまで現場主義者であるピンと、「私はAVを通じて自然主義、ひいては露骨なる描写を…」という頭でっかちな花袋がうまくいくはずもなく、ビデオ冒頭、和室で机に向かった出演者(花袋役)が思い悩むというシーンの、ピンや出演者たちのあまりに「非・文学的」な演技を見た花袋は、「あまりにふざけている!」と怒りだす。それに対するピンの反論がいい。「あなたは悩むとき、そんな文学的に悩むんですか、頭の中で小説にあるような高尚な文章が聞こえてるんですか、そんなわけはない、もっと感情的、短絡的、非論理的に悩むでしょう、それを正直に表現しなくて何が自然主義ですか、何が露骨なる描写ですか」と、言っておきますが原文とは全然違います。こんな感じの事書いてあった気がするというだけのものです。でもその通りだと思いますね。

結局、自然主義をつきつめていくと、露骨なる描写をつきつめていくと、それはいつしか文学じゃなくなっちゃうわけです。人間の思考、行動は、ひとつの作品としてパッキングするにはあまりに複雑で、脈略がなく、不揃いに過ぎる。花袋は、いや多分、全ての自然主義文学作家たちは、その事実を正面から認める事ができなかったのだと思う。彼らが自分の事を「作家」だと思い、自分の作品を読んでくれる読者を想定している以上、作品の「まとまり感」を完全に無視して、人間のありのままをありのままに書くということは不可能だったのではないか。あるいは、作家としてのプライドが(つまり、作品にこだわる、という姿勢そのものが)それを邪魔したのではないか。

だから、例えば言文一致が「口語体を使うという事で、しゃべったまんまを書くわけじゃない」となっているように、自然主義や露骨なる描写にも「ありのままをありのまま書く事を目指すが、ありのまま過ぎると文学にならなくなっちゃうから注意」みたいな程度にしておくべきだったんだ。でも結果として、【反自然主義運動が盛んになり、ヨーロッパから帰国した荷風らの耽美派、雑誌「白樺」を中心とする白樺派、夏目漱石、森鴎外らの余裕派が活動、自然主義は急速に衰退していった】(Wikipediaより)ようなので、なんとも。その結果として今の「エンターテイメント小説至上主義」があるのやもしれない。

何れにせよ、明治期の人々にとっての「文学」は、今の世の中に比べてずっと身近なものだったという事は強く感じる。インターネットはおろかテレビすらなく、娯楽(これは「暇つぶし」という意味も多分に含む)が小説とか詩とかしかなかったわけだから当然かもしれない。しかし今、様々な娯楽へのアクセスが容易となった世界に居て、明治期、文学という世界の中で頭を悩ましていた作家さんたちが、妙に活き活きとして見える。浅く広くの現代にあって、狭く深くの姿勢に惹かれるのは道理かもしれない。幸か不幸か、僕は日本語というものに興味を持った。明治の作家たちのように、恥も外聞も捨てて文学に没頭できるかといえば、その理由も勇気もないが、もう少し真剣に、割とダサい感じに真剣に、文学を考えてみるのも一興だと思う。今更に文学青年。いとおかし。




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