家に帰れ、書を拾おう。 |   EMA THE FROG

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つい最近まで戦争ゲーム一触の生活を送っていたはずなのに、いつの間にやらPS3のコントローラーは様々な本に変わってました。前も書きましたが僕は周りが思っている程読書家じゃあありませんし、読書自体は好きですが読書スキルは非常に低いです。読むスピードも非常に遅くだからといって内容の理解度が高いかというとむしろ最低で、何時間も何日もかけて読んだ小説の裏表紙を閉じた時点でその内容を全く覚えていない事に気付く、なんて事も全然あります。が、やっぱし読書自体は好きなので(そう考えるとなぜ好きなのかが不思議になってくるなあ)ついにCOD4にも飽きた事だしと、色々読んでいるわけです。

という事で、最近読んだ(読んでいる)本を意味なく紹介します。

■荒俣宏『帝都物語』
陰陽道とか風水とか式神とか祟りとか腹中虫とかの類が満載の小説。読んでいると時々荒俣センセのあの独特の顔が浮かんできて困る(あの人185センチもあるんだって。なぜかそれを知った時自分でも引く位笑った)。僕が読んだのは『帝都物語』でも最初の最初、「神霊篇」と「魔都(バビロン)篇」のみで、外伝含めるとまだ10ストーリーくらいあるみたい。う~ん。続き買うかは微妙。いや、面白いは面白いんだけど、読んでいると時々荒俣先生の顔が(ry

■春日武彦『無意味なものと不気味なもの』
春日さんは、精神科医でもあり作家でもある変なおじさん。『問題は、躁なんです~正常と異常のあいだ~』『不幸になりたがる人たち~自虐指向と破滅願望~』等この人の本はちょこちょこ読んでるんですが、だいたいにおいて語り口は軽く、内容は重い。重いけどあくまで軽くて、う~ん、なんだか印象がはっきりしません。そもそもこの人を知ったのは、『独白するユニバーサル横メルカトル』を書いた平山夢明との対談、『「狂い」の構造~人はいかにして狂っていくのか? ~』でした。狂いは「面倒臭い」という感覚から始まるという二人共通の意見には、深く感じ入るものがありました。だって僕、ちょう面倒臭がり。という事でこの作品はというと、「無意味な」あるいは「不気味な」小説のレビュー兼先生の体験談といった所です。

■雑誌『spore vol.3』
文学と写真とファッションと対談と、いろいろつまった雑誌。同人的というのか、共通の(あるいは違った)趣味を持った方々が個人的に集まって作っているような、手づくり感溢れる本です。とはいえ装丁、紙質、レイアウトデザイン等のクオリティは非常に高い。amazon.comにすら登録されていないこのアンダーグラウンドな雑誌の存在を知ったのは、川井俊夫という人がきっかけでした。『塩と水』というテキストベースのブログ(?)に書かれた、彼の詩的な文体・リズムに僕はいたく感銘を受け、他にもこの人が書いた文章が読める場はないかとネットの中をうろついていた時、何とこの人が書いた小説が掲載されている雑誌があるという情報をキャッチ。それがまあつまり、この『spore』という本だったわけです。

で、『兵』という短編小説を読んだんですが、何というか、何というか。ブログではあれほどに自由な、それでいて文学に対する興味と尊敬に満ちた詩的な(あるいは私的な)言葉を紡いでいたのに、その舞台が散文から小説に変わった途端、あるいはネットから紙媒体に変わった途端、あるいはプライベートからパブリックに変わった途端、言葉に鋼鉄製の養成ギプスをはめられてしまったかのように、異様に不自由で、かつ、文学に対してひどく不敬な印象のものに変わってしまっていた。トイレに入り、竹の子をほじくり返し、以前の職場でのもめごとを思い出し、そして今の職場の女職員となんでもない話するだけの内容を、「~た」で終わる文章で淡々と書き連ねるだけのこのごく短い作品に、価値を感じる人間は多分少ないだろう。僕自身期待が大きかっただけに(というより、この小説を読むためだけにこの雑誌を買ったのだ)、正直がっかりした。

しかし、僕は彼に感情移入もした。ここで言う「彼」とは、作品の登場人物である「私」の事ではない。この小説を書いている、あるいは書かなければならなかった、川井俊夫本人の事である。多分、彼には選択肢がなかったのだと思う。こう書くしかなかったのだと思う。

それは外的要因のせいではなく、多分、彼自身にすらコントロールできない、彼の内側にある「ルール」のせいで。実際にはどうだか知らないが、もしそれが正解なら、僕は何となくその気持ちが分かる(分かるからこそ感情移入するのだけど)。誰よりも自由な言葉を紡ぎたいと思い、何よりも言葉への情熱を持っているからこそ、結果として誰より不自由な言葉しか生まれず、言葉の可能性を徹底的に否定するような作品が出来上がる。少なくとも僕は、この流れに矛盾を感じない。つまり、彼には、選択肢がなかったのだ。

実は彼の文章は、僕をドキドキさせた『塩と水』というサイトではなく、『スヰス』というサイトの方で(一部の人間には)有名だったらしい。しかし現在、既に『スヰス』は閉鎖されており、『塩と水』の方も長らく更新されていない。2chでは「死亡説」まで流れており、彼の行方は少なくともネット上では追う事ができない状態だ。彼が生きているか死んでいるか、その答えは僕には知る由もないけれど、彼が現在(少なくとも開かれた形では)文章を書いていない事は確かだろう。実際、sporeの最新号に彼の作品は掲載されていない。

何れにせよ、彼にとって「小説」というものは、決して希望に満ちたものではなかったのだと僕は考える。むしろ、絶望とか諦めとか悲しみとか苦しみというものの方が、ずっと大きかったんじゃないかと思う。しかし、自分の希望を真正面から見つめた時、自分が何をしたいのか、何を追及していきたいのか、それを真剣に考えた時、それを投影するスクリーンは、結局「小説」の中にしか見つからなかったんじゃないかな。

ま、以上は僕の勝手な想像です。彼を非難する気も全くないし、どちらかと言うと必要以上に崇拝しないように気をつけて書いたつもり。とりあえず『spore vol.4』を購入して、彼のもう一つの小説を読んでみようと思う。往々にして、期待は裏切られるものだ。でも、期待しない人生など味気ない。そしてまた、期待が叶わぬと分かっていてする期待は、青臭いと言われようともなかなか意味のある事だと思う。という事で、今はどこで何をしているのか分からない川井さん。小説、期待しています。