実家で暇だったのでDVDを見ていた。5年くらい棚にしまいこんでいたRADWIMPSのツアー。もちろんさとしさんもいる。こんな曲あったねぇ!と母も後ろで言っている。君の名はからRAD評価が私の中でうなぎのぼりなのは母も知っていること。母はバンプとラッドは似たものと思ってるふしがあるため、君の名ははバンプでもまあまあ良かったろうねぇと言った。もちろん全力で否定した。あれはRADWIMPSでないとだめだったのだと!
あれだけ良かったのは監督がRADWIMPSと緻密に企画して作ったからだという製作背景はここでは抜きにしよう。基央が書く曲と洋次郎が書く曲の違いっていう、そういった面での話だ。バンプではちがうだろという理由。
君の名は。は、一言で言えばSFの恋愛映画。さいごまでなかなか二人は出会えないし、そもそも真っ正面から出会っていなかったし、だけど体は共有したことのある、ずっと頭の片隅に記憶された気になる存在。相手が生きているのかもわからない自分があした死ぬかもわからないそんな夢みたいな世界で今と過去と未来をワープして決死の告白をして……(そこで流れるスパークルまじやばかったよね)。時間軸も存在も不安定なふたり。不安定ってなんて純なのだろうかね。みんなが泣いたのはこの不安定さがあったから。この不安定なピュアさは、そもそもRADWIMPSの特性なのだ。
25コ目の染色体という曲がある。あなたが死ぬその一日前に僕は死にたいとか、生まれ変わったらひとつのからだで生まれてこようとか、一生のお願いを一度ならず二度も使っちゃったりとか。これいくつの人が歌ってんのという歌詞がこれまた大ラスにむけてラッド節ともいえる早口な歌詞でたたみかけられる。
▷25コ目のやつ
シメなんて、将来うまれるかも知れないこどもに自分のハッピー運とラッキー運だけはひとつだけ染色体に乗せてあげてほしいな、と語って終わるのである。それはまるでサンタクロースを本気で信じちゃってるような、無垢なこどもを見ているみたいだなぁと思う。本当はサンタいないんだよ、といえない大人の気持ち。この曲の切なさはそこにあると私は思っている。
ふたりごとという曲もそうだ。だいたいラッドの歌詞は二番あたりからスパークしてくるのだが、この曲においては恋愛という漢字を君と僕にしようと企むのである。無理である。そしていつしか曲はなぜか二人が宇宙人になる方向で進んでおり、火星人でも木星人でもたかが隣の星だろ、一生に一度のワープをここで使うよイェーアと叫ぶのである。
▷ふたりごとのやつ
誠に発想が突飛である。頭大丈夫ですか、と言いたくなる狂気さとか不安定さがそこにある。けど恋愛ってそこまでさせるよね。いやわからんけど、まあ多分そうなんだと思う。
それに対してなんというか、バンプの音楽は健康なのだ。健全とでもいおうか。愛や恋を真っ正面から歌わない。いつもあなたの中のあなた、というか、自分の中の自分、というか。僕や君を使ったとしてもいつだってそれは複数の僕や君を指していて、見えないものが見えたり冷たいものが熱かったりそうそれは歌詞の解釈なんて俺は俺だしお前はお前だしそんなの個人に任せているんだよという姿勢がある(実際藤原氏は解釈なんて個人の自由だと発言してる)。登場人物にせよメッセージにせよ何かに執着していないのがバンプの曲の特徴だったりする。
▷冷たいものが熱かったりするやつ
多分藤くんはシャイなのだろうな、と思う。公式な(本人が認めた)ラブソングは「リリィ」だけなんだけど、彼らの曲にもまあラブソングっぽいものがいくつかは存在する。
▷embraceについて
25コ目の染色体という曲がある。あなたが死ぬその一日前に僕は死にたいとか、生まれ変わったらひとつのからだで生まれてこようとか、一生のお願いを一度ならず二度も使っちゃったりとか。これいくつの人が歌ってんのという歌詞がこれまた大ラスにむけてラッド節ともいえる早口な歌詞でたたみかけられる。
▷25コ目のやつ
シメなんて、将来うまれるかも知れないこどもに自分のハッピー運とラッキー運だけはひとつだけ染色体に乗せてあげてほしいな、と語って終わるのである。それはまるでサンタクロースを本気で信じちゃってるような、無垢なこどもを見ているみたいだなぁと思う。本当はサンタいないんだよ、といえない大人の気持ち。この曲の切なさはそこにあると私は思っている。
ふたりごとという曲もそうだ。だいたいラッドの歌詞は二番あたりからスパークしてくるのだが、この曲においては恋愛という漢字を君と僕にしようと企むのである。無理である。そしていつしか曲はなぜか二人が宇宙人になる方向で進んでおり、火星人でも木星人でもたかが隣の星だろ、一生に一度のワープをここで使うよイェーアと叫ぶのである。
▷ふたりごとのやつ
誠に発想が突飛である。頭大丈夫ですか、と言いたくなる狂気さとか不安定さがそこにある。けど恋愛ってそこまでさせるよね。いやわからんけど、まあ多分そうなんだと思う。
それに対してなんというか、バンプの音楽は健康なのだ。健全とでもいおうか。愛や恋を真っ正面から歌わない。いつもあなたの中のあなた、というか、自分の中の自分、というか。僕や君を使ったとしてもいつだってそれは複数の僕や君を指していて、見えないものが見えたり冷たいものが熱かったりそうそれは歌詞の解釈なんて俺は俺だしお前はお前だしそんなの個人に任せているんだよという姿勢がある(実際藤原氏は解釈なんて個人の自由だと発言してる)。登場人物にせよメッセージにせよ何かに執着していないのがバンプの曲の特徴だったりする。
▷冷たいものが熱かったりするやつ
多分藤くんはシャイなのだろうな、と思う。公式な(本人が認めた)ラブソングは「リリィ」だけなんだけど、彼らの曲にもまあラブソングっぽいものがいくつかは存在する。
▷embraceについて
だけどそれは、そうもとれるよね、という書き方で、誰かに宛てたともとれるし、結局これは単純に愛情のはなしだよね、なんて言い訳ができそうな気もする。不思議なもので、個人の解釈が行き着くところなんて結局みんな同じで、最終的にはこの人たちは普遍的な愛を歌っているのです。自分を愛してね、誰かを愛してね、今を愛してね、と。だから聴き手はいつも、これでいいのだねと安心して泣く。バンプありがとうね、となるのである。そこにはいつも安定がある。バンプの音楽はそういった意味で健康的なのである。
たとえば洋次郎がエメに提供した蝶々結びなんて、出だしから紐を結んでいるしかない。だけどあの不安定さはすごい。ただの蝶々結びがなぜだか生々しく、曲調も相まって最終的にはこの紐が登場人物の不安定な心情とイコールしてくるのである。
▷ただ結んでるだけなのにのやつ
なんとなく、バンプとラッドは似ているのかもしれない。それは四人組編成のロキノン系で、思春期の中高生をリスナーに持つバンド、的な側面から生まれた認識かもしれない、あと声の繊細さも若干似てるしな。だけど表現の仕方はまったく違ったバンドだと思う。君の名は。はやはり、RADWIMPSでしかなかった。バンプは君の名はの不安定さは背負えなかったと個人的に思うのです。RADWIMPSにワンピースやドラえもんの安定感が背負えなかったように。そう思うとなんだか合点がいって、あーもっかい君の名はが観たいなァ、と、強く思った。
※ここ数日褒めまくっていますが私は君の名はとRADWIMPSとは一切関係ありません