北京には何回か出張したことがある。何れも数日の滞在で、ほとんど都心のホテルとその周辺にしか行っていないので、特別北京通というわけではない。ただ、行き先の関係で一度だけ比較的郊外にあるホテルに泊まったことがあった。その夜、同行していた中国人のカウンターパートが夕食に案内してくれたのは、日本で言えば地方の老舗食堂みたいな中国料理屋であった。「こんな古臭いレストランで申し訳ない。」と言うカウンターパートであったが、僕としては北京市内の今風なレストランより、こういう所の方が大歓迎であった。

 

 さて、そのレストランというか食堂で、カウンターパートから「これは北京を代表する地元食だから」と特に勧められたのが写真の麺だ。うどん状の太い麺(量はうどん2-3玉分はある)の上に味噌味ベースのたれ、そして刻んだキュウリやネギ等の野菜がのっている。これをぐるぐるとよくかき混ぜて食するのだという。見た目も味も、これはどこから見ても盛岡名物のじゃじゃ麵である。いや、こちらの方が本家本元に違いない。この料理を食べて、改めて北京というのは小麦料理の本場だということに気付かされたのだった。

 

 

 さて、今回のレシピ本はウー・ウェンさんの「北京小麦粉料理」である。僕がウー・ウェンさんを知ったのは比較的最近のことだ。確か誰かのブログかSNSで、彼女のレシピ本「大好きな炒め物」が絶賛されていて、僕もつられてその本を買ったのが最初の出会いだ。それ以来、僕は彼女のレシピの大ファンになり、本も数冊持っているという次第だ。

 

 

 

 ウー・ウェンさんは北京生まれで北京育ち。従って中華料理の中でも特に北京の家庭料理を中心としたレシピを紹介している。言うまでもなく、中華料理は我々日本人には最もなじみの深い料理だ。しかし、我々がよく知る中華料理というのは基本的に日本人向けに改良された、いわゆる町中華的な中華料理だと思う。一方で、ちょっと高級な中華料理屋の料理は、家庭料理とは異なる、いわば料亭料理みたいな中華料理が主だ。従って、中華料理というカテゴリーの中で、中国の本当の家庭料理というのがすっぽりと抜けていて、この部分に関して我々は実は良く知らないように思えるのだ。このことはウー・ウェンさんの本を読むと、はっきりと感じられる。例えば青椒肉絲のようなポピュラーな料理であっても、ウー・ウェンさんのレシピはとても新鮮で、僕から見ると全く新しいレシピとさえ思えるのだ。

 

 

 

  「北京小麦粉料理」の中で、例えばギョーザについてウー・ウェンさんは次のように書いている。「野菜の香りを皮で閉じ込めるところが、ギョーザの最も大きな、他の料理にない特徴です。」これを読んで「そうなんだ」と思わず声にしたのだが、僕はこんな発想でギョーザを考えたことはなかった。このあたりがウー・ウェンさんの本とレシピの魅力だ。(因みにここでいうギョーザは焼きギョーザではなく、中国で一般的なゆでギョーザ。)

 

 「北京小麦粉料理」では様々な小麦粉料理が取り上げられている。これは北京出身のウー・ウェンさんのまさに真骨頂だと思う。そして、その調理方法も多彩である。レシピは「水、ぬるま湯、熱湯でこねる生地」から作る麺類、ギョーザ、また麺棒で伸ばした生地で餡を挟むローピンのような料理のレシピがある。これに「発酵生地」を用いたシャオロンパオ(小籠包)やパオズ(中華まんじゅう)のような蒸し料理のレシピ、そして「水と油でこねる生地」を使ったレシピへと続く。

 

 麺のレシピを開くと僕が北京で食べた麺料理が、ジャージャン麺として紹介されている。「北京の最も代表的な麺の食べ方です。ジャージャン、つまり”揚げたみそ”はみそに肉を加え、油で揚げるようにじっくり炒めたものです。」中国人カウンターパートが言っていたとおり、これはやはり北京を代表する地元食だったのだ。北京の麺は見た目全くうどんなのだが、全体に柔らかいのも特徴だという。「北京の麺は、日本のうどんと同じですが、それほどこしの強さを重視しません。むしろなめらかで、モチッとしたやわらかさを大切にします。」

実際、レシピに沿って麺を打ってみると、水と小麦粉を箸で混ぜ合わせ、丸めて捏ねて伸ばして切れば出来上がる。うどんの一般的なレシピと比べても工程は比較的シンプルだ。

 

 思うに「うどんの麺はこうあらねばならない」というような固定観念に縛られ過ぎると、我々は本来ある料理の自由度を見失しないがちになる。以前フランスのアルザス地方を旅行したときに、見た目はピザだが無発酵の生地を用いたタルト・フランぺという地元料理を食べた。ピザとは異なる薄くパリッとした生地の食感が美味しかった。そして、ピザ生地はこういうものだという観念を一度取り除くと、違う美味しさが楽しめるのだとその時思ったものだ。「北京小麦粉料理」にはこうした固定観念を取り除いてくれるレシピがたくさんある。そこが新鮮で楽しい。

 

 麺料理のレシピから「メンピェン」という一品を作ってみた。これは 「生地を無造作に引きちぎる、というよりはバリバリと紙を破くようにちぎって鍋に落としていきます。なんともまとまりがなく、つかみどころのないおいしさ・・・」 とレシピにあるように、とてもシンプルな麺料理だ。捏ねて、伸ばした麺をちぎってそのままスープに入れれば出来上がりだ。

 

 

 先ず強力粉と薄力粉を半々の量で混ぜて水を入れて捏ねる。ウー・ウェンさんのレシピでは小麦粉は先ず箸を使って混ぜ、箸だけで生地をまとめてしまう。これも結構新鮮だったりする。この生地を最後に手で丸めて30分ほど寝かせる。その後、生地を今度は手でしっかりと捏ね、なめらかになったら麺棒で伸ばしていく。

 

 

 

 捏ねた小麦粉の生地ををきれいに伸ばすのは結構難しい。これは経験が必要だと思う。メンピェンの場合はちぎって鍋に入れるだけなのでまだいいのだが。

 

 

 

 次にスープを作り、そこに伸ばした生地をを引きちぎって投入する。スープは長ネギを油で炒めてから醤油を加え、さらに炒めながらこれをからませ、次に水を入れ、最後にスープの素を加えるだけのシンプルなものだ。シンプルながら醤油で焦がした長ネギが実にいい味を出す。出来上がったメンピェンのツルッとした麺の食感はワンタンに似ているのだが、大きさや形が不ぞろいなので、それがまた独特な食感と味わいを生んでいる。

 

 ウー・ウェンさんによれば、小麦粉料理はシンプルであっても、焦って乱暴に作ると絶対にうまくいかないという。その極意は「粉に水をなじませていく過程、こねて生地をつくる過程、成形の過程など、きちっと、ゆっくりつくらなければならない面があります。動かせない必要時間というものがあります。きまった時間で、きまった形、きまった味に正確につくるようになれば、それが小麦粉料理の上達の証です。」ということなので、これは肝に銘じたい。

 

 さてページを進めて北京家庭料理で最もポピュラーな小麦粉料理だという、ピンを作ってみたい。ところで、そもそもピンとは何なのか?

 

 「ピンとは小麦粉をこねて、丸く平たく成形したものの総称です。小麦粉はただこねて焼いても、固くて食べられません。そこで考えられたのがふくらませる発酵生地を焼く方法と、ここで紹介する層を作って焼く方法です。生地に油を塗って巻き、ひとひねりするだけで、信じられないくらい多層のパイ層になります。」

 

 僕は「北京小麦粉料理」を読んで最も面白いと感じた料理が、このピンだ。酵母やベーキングパウダーを使って食感を作り出す代わりに、生地を重ねた層で食感を作るという発想もあったのだ。これぞまさに固定観念の向こう側だ。今回はピンの中でも「北京の永遠の定番の献立の一つ」というローピンを作ってみた。

 

 作り方はそれほど難しくはない。薄力粉をぬるま湯と一緒に捏ねて伸ばす。生地が少し柔らかく、手や台にくっつくが何とかこなす。伸ばした生地の表面に調味料で味付けした豚ひき肉と葱で作った餡を広げる。これを何回か折りたたんで層を作り、再び麺棒で全体を広げてフライパンで何度か表裏を返して焼けば完成だ。

 

 

 

 

  焼き上がりをほおばると、やはり層になった小麦粉の生地の食感と葱の風味がいい。お好み焼きとも違う新しい食の体験だ。本のレシピには生地を巻いたり重ねたりした様々なピンが紹介されている。僕もいくつかを試したのだが、何れも生地の食感はもちろんだが、餡の味付けがとてもいいことに気付く。特別な調味料は使っていないのだが、日本式と少し違う、おそらく中国式の調味料の配合が絶妙で、これがウー・ウェンさんのレシピの大きな魅力になっている。

 

 さて、本のレシピはさらに発酵生地を用いた中華まんじゅうのような蒸し料理へと進んでいく。せいろを用いた蒸し料理は中華料理の一大特色だが、僕はこの本を読んだ後でとうとう中国式のせいろを買ってしまった。初めて作った中華まんじゅう(パオズ)は生地の包み方や閉じ方等にまだまだ課題が山積だが、味だけは結構いけた。これもやはり、ウー・ウェンさんの調味料の配合のなせる業である。

 

 

 

 

 

 小麦粉は料理に使う穀物としては最もユニバーサルな素材だ。中国だけでなく世界中には様々な小麦粉料理が存在している。それらは歴史や風土の違いから一見異なるようで、実は共通する部分が多い。例えばペキンダッグに使う小麦粉生地の皮は世界的に見ればフラットブレッドの一種であり、前回の記事で取り上げたギリシャのピタパンやインドのチャパティと共通している。そして、ここで固定観念を外せば、もっと自由な調理法が見えてくるような気もする。例えば麺であれ、ピンであれ、薄力粉と強力粉の配合や使い方をあえて変えてみれば、全く違う食感や味覚が味わえるかもしれない。そこには正解などない。この「北京小麦粉料理」には小麦粉料理に関して、そうした新しい発想を導くヒントが満ちている。そして「北京小麦粉料理」の最大の魅力は、やはり全てのレシピが本場の中国家庭料理の味付けや調理法に基づいていることだ。これはウー・ウェンさんの全てのレシピ本に共通している。そのレシピ通りに料理を作ってみると、我々が普段用いている味付けとの違いが明らかに感じられる。ポピュラーな中華料理を作ってもその仕上りはとても新鮮なのだ。

 

 最近僕は「ウー・ウェンの中国調味料&スパイスのおいしい使い方」という本を購入した。ここにも中国家庭料理のどんな新しい発見があるのか、今は興味津々なのである。