いまのしゅんかん -374ページ目

フェステラウン(4)


今日、久しぶりに娘は自転車で保育園まで行った。
長いこと日が短いことを理由に断念させていたのだが、、、
保育園まで息たえだえ!
微妙に坂道ではあるが、あんなにつらそうにしていたこと、今までなかったのに!
かなりショックである。
最近はプールも体操教室もご無沙汰。
完全、体力が衰えてしまっている。

ちなみに、わたしも2kgほど体重が増え、
彼に至っては5kgも増えてしまった!
寒いからといって、自転車ではなく、お父さんに車で送り迎えしてもらったツケがきたといえよう。

今日は、保育園でフェステラウンがあり、みんなして仮装していたが、、、
これが終わったら、運動のことについても考えなくては。

娘、、、、
本当にかわいらしいんだけど。
フェミニンから10億光年ほど離れたわたしの娘とは思えん。
(なんなの!この頭の傾げ方!)

フェステラウン(3)


土曜日の夜、やっとドレスが完成した。
娘はそれを予想以上に喜んでくれ、出来てからというもの、ず~~っとドレスを着続けたのである。
前から申し込んでいたフェステラウンのイベントも、外にあるからという理由で行くのを嫌がったほど。
外に出るには、ドレスを脱いであたたかいものに着替えるか、上から何かをはおるしかない。
娘はドレスだけを着ていたいのだ。

それでも、強引に上から大人のジャケットを羽織らせてイベントに参加したものが。
マイナス1℃!
いくらジャケットを羽織っているとはいえ、スカートの下から冷気はどんどん入っていて足がどんどん冷えていく。
恒例の樽割りを終えて、もらえるものはもらってそそくさと会場を後にしたのだった。

彼のお父さん宅で、彼がダンボール箱を樽に見立てることを思いつき、地下室にダンボール箱をつるし、皆でバンバンたたいた。

そして、彼の実家にあった「シンデレラ」の本を読んでもらって、すっかりご満悦な娘。
結婚の意味はあまり理解してないけど、この年齢の女の子って、お姫さまに興味があるんだよねぇ。
妙に女の子らしいというか。

それにしても、手作りのドレスは大好評で、彼も「手作り効果」の大きさを実感したようだ。
毎朝徐々にできていくドレスへの期待やうれしさといったらなんとやら。
子供の「きもち」って、本当あなどれない。

自信を育てること


夜、息子さんのことについて、彼と話し合った。
もともとの気質のせいもあるが、最近とみに、人の話を聞かない、一人になることに対して異常なほどまでに怖がる、ダメといわれるととたんに泣き出してしまう、などの問題が強く認識されるようになったからである。

娘より1歳半年下というのもあるが、それにしても、他の3歳児と比べても幼いという印象をもっていた。言葉はしっかりしているのに、自分で服を着れない、食べるときに手を使うなど行動に幼さがみられる。
言葉にしても、しっかりはしているが、生理的欲求を訴えるなどの現実的な内容ばかりで、どうも深みがないという。保育園でのことを聞いても、何も話してくれないそうだ。

彼からしてみれば、常に愛情をかけている努力もしているし、本を読んであげたりもしているし、できるかぎりのことをしていると。

でも、わたしからしてみれば、どうなんだろう、と思うことが多い。

例えば、レゴブロックにしても、息子さんはときどき何かをつくったりしている。
でも、それを彼はそれを褒めることはほとんどせず、自分が得意だからといって複雑な構造をした汽車や船や家などをさくさくと作ってしまう。
描画もしかり。自分で複雑な電車の絵を描いてあげてしまう。

当然、大人の造ったもの、描いたもののほうが、子供にとってもすばらしいと思ってしまうだろう。
それで子供は、自分自身で造ることをあきらめ、大人に立派なものを造ってもらうように望むようになるだろう。

どんなに、大人が子供に働きかけたところで、すぐさま充実した反応は返ってこない。
子供が「自分でやった」という感覚を得て、初めて充実した話をしてくれるようになるのである。

服を着せてあげることについても指摘したが、彼の言い分としては、「なかなかこっちの言うことを聞かないから、仕方なくやってあげている。」とのこと。
これも、今となってはもう遅いが、おそらくはもっと息子さんが小さいとき、彼が息子さんの「自分でやりたい」という意思表示を摘めなかったことが原因でないか、と思っている。
1歳、2歳児は、どんなに上手でなくても、どんなに時間がかかっても、自分でやってみたいという好奇心が芽生えるはずなのである。それを、大人の都合で、摘み取ってはならない。

どんな小さなことでも褒めること。
どんなに時間がかかっても待ってあげること。

これが、彼の欠けていることだと思う。
食べることにしても、手を使うなと注意するだけでは、なかなか上達しないだろう。

だけど、彼の置かれている状況も複雑だったのだろう。
元奥さんとの関係で常に緊張が強いられていたがために、息子さんのささやかな欲求とかも認識できなかったのかもしれない。
そして、元奥さんの息子さんに対する接し方にも問題があり、自分で息子さんを育てるという意識は希薄で、まるで玩具のような扱いで、頻繁に息子さんにおもちゃを買い与えてはいたが、服の着方、靴のはきかた、食べ方など教えようとはしなかったという。

そうしていくうちに、息子さんはすっかり自信というものが育たなくなってしまった。
大人が与えてくれる環境を享受しているのみである。

特に、お母さんが突然家を出て行ってしまった。
そのことによって、どれほど傷ついたかしれない。

わたしは彼に、「とにかく、自分でできる、という自信がつくようにしなくては。」と訴えた。
それって本当に難しいことだけれど、長く時間がかかることを覚悟して取り組まなければならない問題である。

信頼関係

今日はフェステラウン。
この枝で親をたたくのが習慣だとか。
ちなみに、右側の奥にあるのが娘が作ったもの。



なかなか航空券が来ないのと、育児手当金と保育料の値引きの申請が通らなかったことで、また彼の前でわんわん泣いてしまった。
今はいいけど、4月からはパートタイムに変えるので給料は今の75%になる。
税金の関係で、正確にはどうなるかわからないが、少なくとも5万円くらいは収入が減ってしまうので、経済的な不安なところにショックを受けるような結果だった。

とりあえず、来週の月曜日に早速市役所に電話すること、木曜日に直接市役所まで問合せに行こうということ、そして夏ぐらいからは一緒に暮らし始めようということで、彼はわたしを安心させようとした。

申請が通らなくても、彼と家計を共にしなくても、きっとなんとかなると思う。
わたし自身が働いているうちは。
実際に、この国に来た当初などは本当に貧乏だったけれど、夫の助けをまったく得ずに生活できたのだから。夫のために頻繁に日本に帰るようにしたけれど、20万円くらいする航空券はいつも自分で負担していた。これから日本に帰ることを控えればなんとかなるであろう。

だけど、ただでさえ離婚のことでストレスがかかっていたから、思いのほかショックをうけてしまった。

彼が、「助けてあげるから。」といってくれるのが、うれしかった。

そういえば、彼の前ではけっこう泣いてしまっている。
苦しいことを吐き出すことに抵抗がなくなっている。
それだけ、彼のことを信用している。

夫は、何も聞いてくれなかった。
わたしが、就職に落ちて落ち込んだときも、
「俺に何をしろといいたいの?」
と言って、わたしもきもちを受け取るどころか、一蹴していたなぁ。
そうして、わたしが夫にきもちを打ち明けるのをあきらめていくうちに、不満がたくさんたまるようになってしまったんだよね。

離婚は好ましくないことだ。
でも、やっぱり本当のきもちを伝えないと、関係を維持するのは難しいだろう。

でも、きっと関係を維持していこうというやる気を失ってから、遅かれ早かれこういう結末になったのかもしれない。

フェステラウン(2)


お菓子が入った、フェステラウンの樽
本当は、もっと大きな樽の中に黒猫のぬいぐるみやお菓子を入れて、子供が順番にハンマーでたたいて壊していき、黒猫を出した人がキングになれるというアイテムなのですが。
まぁ、節分の豆まきと同じような目的があるのかな。「悪」を追い出すという意味で。

去年は、お菓子屋さんでこういう小さなお菓子入りの樽を買ったのだが、今年は、牛乳パックを使って手作りしました。
中味は、日本のハイチューと、アンパンマンのチョコレートと、アジアショップで買ったゼリー。
お菓子屋さんではひとつ1,000円はするので、だいぶ節約になったかな。

いやいや、節約ではなく、こういうことをして現実逃避しているのかも。
ドレス作りもそうだけど、没頭していると集中して何もかも忘れられるから。
事実、最近は1時、2時就寝である。

本当、最近は楽しい。
日本に帰るのが怖いのである。

ビザ取得


移民局近くの風景
運河が凍っていて、その上に鳥たちが座っている。


ビザ取得!
まぁ、1年間の労働許可だけど、今回は書類を申請して1時間弱でビザがおりたので、かなりマシな方でしょう。
去年は、古い書類をもっていったため、審査が持ち越しになってしまい、再度移民局に出向かなければならなかったので。
ちなみに、彼の奥さんの場合、3時間待った挙句に、2階に連れていかれてさらに2時間も待ったそうだ。この国の男性と結婚しているにもかかわらず、何故そんなにも審査に時間がかかるのか疑問であるが。

今回、すんなり申請用紙に書き込めるように去年ミスしてそのままとっておいた書類をもっていったのだが、去年の申請用紙と違うのは、学歴や職歴についても書かなければならなかったこと。
EUでも、高い学歴をもつひとだけが移住を許されるべき?というのが物義を醸し出していたが、審査に影響出るかどうかは不明であるものの、こうやって深く個人情報を求められるようになって、徐々に移住が厳しくなっていくんだなぁ、という実感をもった。
事実、国際結婚の場合、どちらかが24歳以下の場合はこの国に住むことができなくなった。
また永住許可が出るのは、従来3年だったのが今は7年である。
国際カップルの多くが離婚しているという現実を鑑みての処置なのだろうか。

彼の元奥さんは、この国の言語がネイティブ並みに流暢であるにもかかわらず、いまだに一人で市役所に行くことができないし、問合せの電話も一切できない。友達は多いのに、政府関係、保育園など公の人との接触を嫌がっているのである。したがって、いまだに彼が代行し、きっとこの先も援助することになるのだろう。
彼のお父さんいわく、きっと自分が東南アジア出身であることで、蔑まされたり、差別を受けるのではないかという不安があるせいではないか、とのこと。
実際に、彼女の母国の女性とこの国の男性間のカップルの50%ほどが離婚しており、離婚まではいかずともほとんどのカップルが深刻な問題(特に経済的なこと)を抱えているとのこと。彼のお母さんが彼の結婚前に危惧していたのも、そうした悪い噂があったせいであった。
彼女は、当然そういう噂があることも認識しているだろう。

昨日、彼の元奥さんは、月1回の援助金を彼から受け取るために、彼のアパートまでやってきた。
毎回毎回必ず息子さんにおもちゃを買ってもってくるのだが、今回はフェステラウン前ということで、ピエロの衣装、騎士の衣装、盾と剣のセット、鎧と剣のセット、計4点を息子さんに買ってきたそうである。
きっと全部で1万円くらいはしただろう。
そのくせ、来週行くはずだったスキー旅行に、「お金がないから行けなくなった。」ともらしていたそうだ。
彼から5万円のお金をもらって。
彼女自身もたくさん買い物したあとに。

一体、彼が彼女に5万円をあげる意味ってなんだろうか、と思ってしまった。
彼女の散財金を供出しているだけか?
息子さんだって、1日たてば、もらったおもちゃに見向きもしなくなる。
彼女はアパートを購入する予定のはずなのに、そして今のアパートの家賃だって12万円もするのに、なんでそんなに無駄遣いをするのだろうか。まったく理解できない。

確かに、それが文化の違うと言ってしまえばそれまでのだけど、その5万円だって、彼が一生懸命働いた結果の1部である。もっと尊重されてしかるべきだと思う。

移民に関する法律が厳しくなることは、わたしにとっても深く関わってくる問題であるが、やっぱりこの国の富を享受している以上は、この国の人たち、この国の文化を尊重することが必要であると、個人的な意見として思う。
がんばって得たものをただ吸い取るだけ吸い取るだけでは、やはり国民にとっても納得いかないであろう。

離婚にともなう手続き

今日は、指導教官とのミーティング以外、ずっとネットで、離婚に伴う実質上の手続きについて調べた。

結婚したときも大変だったけど、今回はもっと大変。
子供がいるし、海外転出しているから。

ふぅ。

わたしは、もともと夫の姓に変わるのが嫌だった。
平凡な姓だから、というのもあるけど、手続きが面倒!
健康保険、年金、銀行口座、パスポート、免許証、、、、

やっぱり、こっちの国のように、夫婦別姓認めて欲しいなぁ、と思う。
だけど、そういう煩雑さを知らない男に限って、夫婦別姓反対!だったりするんだよなぁ。
ちなみに、この国では、子供の名前は、ミドルネームに母親のラストネーム、ラストネームに父親のラストネーム、というのが多い。
法律で認められている夫婦別姓を実行しているカップルは50%くらいだそうな。

ちなみに、わたしたちは2年近く海外転居しながら、転出届を出しておりません。
理由は、社会保険の権利喪失を避けたかったのと、一時帰国したときに医療を受ける可能性があるから。特に娘の予防注射があったので。
市役所の人にも、夫が日本にいるのだから、特に手続きをしなくてもいいのでは?といわれて、そのまま放置していたのです。

だけど、保険、年金、免許証、銀行口座のことを考えると、離婚して新しい戸籍謄本ができるのを1週間以上待って手続きするよりは、先に転出届けを出すのが妥当か?と思ったりもしています。
市役所に問い合わせて相談してみます。

育児についてのディスカッション


もちつき。
ほら、粘ってきたよ。


彼と、子育てのことについて話した。
文字を教えたり、長時間TVを観させるのはよくないという話をしたのだが、彼にとっては酷な内容でもあったかな。もちろん、同意をしてくれたけれど。

彼は、「叱らない」「受け入れる」を徹底している。
もちろん、わたしも感情的に叱ることは子供に悪い影響を与えると思っているから、それについては賛成である。

だけど、「受け入れる」というのはどういうことなのだろうか。
TVを観たいといわれればそれを許可し、これをやってくれと言われればやってあげ、甘いものが欲しいといえば与える、、、これって「受け入れる」ことなのか?
「甘やかしている」のではないか?

「受け入れる」って親にとって大変なことであり、
「甘やかす」は親にとってラクなことなんだと思う。

わたしは、娘に自分でできることは自分でやってもらうことを徹底しているが、はたからみれば、一切子供を援助しない冷たい親に見えるかもしれない。
でも、実はこれは大変なことなのである。
だいぶ成長した今はともかく、最初のころは失敗も多いしなんといっても時間がかかる。
朝の急ぎたい時間に、子供に自分でやらせるということは、実は親にとって忍耐が求められることなのである。
どんなに時間がかかっても怒らない。焦らせない。そうして辛抱強く子供の力を信じて待った挙句に子供自身の力で成し遂げれれば、子供にとって自信を得ることになる。「一人でもできるのだ。」と。そういった自信が、違う困難への挑戦のモチベーションにつながり、次へのステップとなりうるのである。
それに対して、親が何もかもやってあげてしまうというのは、実は親の思い通りにすることであり、子供にとってもやってもらうことが当たり前となって、自分でやりたいという意欲も育たなくなる。

娘は、決して最初から何でも挑戦する!といった意欲的な子供ではない。
けっこう怖がりだし、臆病な子供である。
だけど、感受性が高いところがあり、ひとたびできた!という感触をつかむと、この上ない至福感が得られるらしく、やみつきになって自分でやろうとするのである。
プールだって、最初は水に顔がつけられなかった。
でもわたしも一緒にもぐっているうちに、水の中ですーっと浮いた快感をつかんでから、めきめきと自力で泳げるようになったのである。

「受け入れる」というのは、親にとって不都合なことであっても、子供のきもちを理解しようとする姿勢を見せることなんだと思う。

わたしが、娘の目の前でドレスを作っているのは、ある種デモンストレーションしているようなもの。
作っている最中は、娘の欲求をかなえようと努力していることを見せていることになるから。
買った方がラクだし安い。
けれども、作るほうが、子供の要求を受け入れるためのエネルギーを多く費やしていることになる。

TVをすぐさまつけてあげるのと、本を読んであげるのと、どちらが子供に注意を向けていることになるだろうか。
本を読んでいる間は、子供にとって親が自分に向けて何かを発信していると実感を得られるだろう。
親が着せてあげるよりも、自分で着るのをあたたかいまなざしで待ってくれたほうが、自分の力を信じているという親の愛情を確信することができるだろう。

無理強いせず、強制したりせずに、子供が本来もつ力で成長を促す。
これって本当に難しいこと。

彼は、「怒らない」ことだけに注力していただけに、着るのも靴をはくのも彼がすべてやってあげ、食べるときに必ず手を使う好ましくない癖がついても直そうとせず、水が怖いからといってプールに行くことも避けていたのだろう。
「怒らない」ことは確かにいいモットーである。
けれども、それだけでは子供は育たない。

これだけごたいそうな育児論を書いているものの、わたしだって欠陥だらけの親である。
最近は彼や彼のお父さんの家に頻繁にいるようになって、本当に娘のことをかまってなかったし。。。
文字をやたら書くようになったのも、わたしとの会話が激減したせいでもある。
それで毎晩必ず日本語の絵本を読むようにしたが。

でも、完璧でないことを認識しながら、常に親としての自分を省みることが大事だと思う。

「だるまちゃんとてんぐちゃん」
これ、かなりの良書です。
だるまちゃんが、てんぐちゃんの団扇だのゲタだの帽子だのにいちいちうらやまがしがるのだけれど、だるまちゃんの親はそれをことごとく理解して用意してあげ、結果的にはだるまちゃんのアイデアであるもので作る。最終的には、「てんぐちゃんの長い鼻が欲しい」という欲求さえも、もちごめを蒸してもちつきをして出来たもちで鼻を作ってあげるなど非常に面倒な手順をふんでまでも、受け入れようとする。
これって、親の愛情を確信できるし、しかもこういう創造的なところに子供も学ぶことができる。だるまちゃんもなかなかのアイデアマンである。

彼には、
「育児は簡単じゃないよ。だけどその困難をシェアしたい。」
と言っておきました。

子育てを省みて


こんなことを夜な夜なやっているので朝起きられない。


昨日の夜は、彼の元奥さんが息子さんに会うために、彼のアパートに来ることになっていたので、久しぶりに娘と2人きりの夜だった。
今までは、奥さんが保育園まで息子さんを迎えに行ってそのまま彼女の家で一晩過ごすというのが普通だったのだけど、昼の仕事が始まって、しかも彼女の家は保育園から遠くて引き取ることが困難となったので、しばらく彼のアパートに来るか、週末に息子さんを引き取るということになるそうだ。
彼女の家に引き取ることができるように、引き続きこの市で住居を得る段取りはしているが。

少し複雑な心境になったものの。
ゆっくり娘と一緒に過ごすこともなくなってきたなぁ、と。
彼の家に行ったところで、ビデオ三昧になるばかりで、いくら息子さんと一緒に過ごせるとはいえ、あんまりよくないことも事実。なんせ自堕落な日々だ。

しかも、彼は面白がって娘に文字を教えている。
わたしは、学齢期前の子供に文字を教えることは、して欲しくないと思っている。
文字にしろ数字にしろ、「覚える」ことを教えてしまうと、形ばかりにとらわれるようになって、自由な発想、感性が育ちにくくなってしまうからだ。
事実、娘は、描画の力が乏しくなってしまっている。
感動を絵で表現することができなくなってしまっているのだ。
そのかわりに、自分の名前や友達の名前を書くことに喜びを見出してしまっている。
友達との時間を思い出しながら書くのではなく、ただ文字を再現できたことがうれしいに過ぎない。

そこで、今日は、一緒にお話をしながら絵を描いたり、一緒にもち米を炊いてもちつきをしたり、本を読んだりして、とにかく2人で一緒に楽しむ時間を作るようにした。
もち米をつくときの、だんだん粘ってきて力を入れなければならない感触とか、もちをとるときのなかなかちぎれない感触とか、体験によって初めて味わえるものってあるし。
本を読んでいても、絵をみながらいろんな疑問とかわいてきて、楽しい会話が展開したりするし。
「楽しい」と思うきもちを、主体的に味わって欲しいと思う。

実は、彼の子供に問題を感じている。
両親の離婚という環境の影響も多分にあると思うが、息子さんに「生きる力」が感じられない。
自分から「何かしたい!」という意思に乏しいというか。
3歳半になるのに、いまだ自分で服が着られないし、手を使って食べる。友達のやっていることをみて自分も挑戦してみようときもちがわいていない。

今夜は、彼といろいろと子供のことについてディスカッションするつもりである。

国際カップルのよさ

またまた例の漫画家さんのHPを見に行って考えさせられてしまった。
「どうしてパートナーが外国人なのか」
という議論の中で、日本人男性にはもてなかった女性のせつない心境が語られていて、わたしもつい過去を思い出して泣きそうになってしまった。

このブログでもさんざん書いてきたが、わたしは恋愛コンプレックスを持ち続けてきた。
夫との関係の問題に対峙できなかったのも、それが原因のひとつでもある。
「この人を失ったら、二度とパートナーを得ることができない。」
という恐怖でもって、我慢の限界に達するまでずるずると困難を受け入れてしまっていた。

なぜなら、わたしは、男性にもてない、というだけでなく、その上鬱陶しがられていたから。
わたしが日本の大学で研究室に所属していたとき、研究室の男性陣から理不尽な差別を受けていた。
わたしの話に耳を傾けないどころか、かわいい子には許されていた過失もわたしにはひどい叱責を受けたり、かわいい子には進んで手伝っていた先輩もわたしには「そんなの自分で調べてなんとかしなよ。」と一蹴したり。

確かに、わたしは可愛くない。
がさつだし、自分のペースにもっていこうとする。
外見を磨いたり、性格を改善させたり、もっと人に好かれる努力をするべきだ、と言ったら本当にその通りなのだが、ここまで人に受け入れられていないと実感してしまうと、とことん自分を否定してますます自分の殻に閉じこもってしまい、自分を変えることなどできないのである。

ところが、わたしをこの国に引き寄せてくれたキーパーソンである外国人の彼(今の指導教官のひとり)がその研究室に研修生としてやってきたとき、わたしの物怖じしない意見にもウンウンとうなずいてくれたりして、日本人男性とは違う感触を彼から得たのであった。
恋愛感情というわけではなく、今まで鬱陶しがられていた言動にも好感をもって受け入られているということが、ただ単純にうれしかった。
実際、彼の奥さんは日本人女性であるが、わたしに勝るとも劣らない強い信念をもった女性である。
「コワイネー。」と言いつつ、奥さんのそういうところを愛していることがわかるのである。
2人でよく政治の話とかもしているらしい。

恋人である彼もまた、わたしの強さが好きだと言う。
最初はアジア人女性の美しさにメロメロになってしまった彼も、美しいだけでは物足りないことに気がついたそうだ。
2番目のガールフレンドはとても美しい女性であったが、一向に語学力を磨こうという向上心がみられず、充実したコミュニケーションがのぞめなくて交際を断念したぐらいだし、元奥さんはかわいらしく語学は達者であったが、話すことが表面的なことお金のことばかりで辟易してしまったという。

わたしの研究に対するモチベーションを評価してくれていた夫でさえも、わたしが政治の話をしようとすると、「それじゃぁ、おまえが政治家に文句言いにいったら。」と言い、わたしが教育の話をしようとすると、「そんなのきれいごとだよ。」と一蹴して、わたしの主張を鬱陶しがっているのがありありと見えたのに、彼はむしろ関心をもって何でも聞いてくれる。
日本人男性が嫌がることを、外国人だったら歓迎してくれるなら、そちらに惹かれるのは自然ではなかろうか。
「外見なんて関係ない。中味を好きになって自ずと外見も美しくみえてくるものなんだよ。」
といってくれれば、本当にわたしという人間を受け入れてくれるという信頼も生まれる。

実際に、日本では、というかアジアでは外見の美しさが重要な要素のひとつであると思う。
ろくにコミュニケーションもないまま恋に落ちることもよくあることではなかろうか。
でもこっちではあまり重視されていない。
おしゃれじゃないし、俳優は美男美女というわけではない。アテンダントも太った中年女性がよくいたりする。
歯については気を配っているが。
むしろ、社会性にすぐれていたり、人を納得させる力をもっている人が人気あるように思える。

彼にしても指導教官にしても、この国では女性にもてなかった。
いずれも外見は普通であるし、身長もこの国の平均身長(181cm)以上である。
察するに、二人とも女性に対してシャイだったからだと思う。
でも、わたしからしてみれば、二人とも思慮深く、魅力に欠けるとは思わない。

国際カップルのよさは、母国と異なる視点からお互いに評価することにあるのかもしれない。
バッググラウンドの違いは困難をもたらすが、違った価値観が新しいものを生む可能性もあるのだ。