安泰 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

「キンダーブック」の記録では、戦前の本誌には作品掲載なく、その付録「ツバメノオウチ」に絵筆をとられていただけのようですが…。


安 泰 やす たい
1903(明治36)年10月4日
福島県三春村 生

1909(明治42)年 父親の郷里である茨城県金砂郷村に移る
1921(大正10)年 家族で上京し、印刷工などしながら画家となるべく勉強する
1925(大正14)年 日本美術学校日本画科二年に編入学する
1927(昭和2)年 日本美術学校四年になった頃、先輩より推薦され「コドモノクニ」に童画を描き始める
1928(昭和3)年 日本美術学校を卒業し、日本画家石山太柏に師事して日本画制作のかたわら「コドモノクニ」での童画も続ける
1932(昭和7)年 松山文雄、川島はるよ、安井小彌太、前島とも、越智はじめと新ニツポン童畫會を設立
1940(昭和15)年 治安維持法違反で検挙留置され、拘留中に知り合った秋田雨雀の『太陽と花園』の装幀と挿絵を担当して翌年フタバ書院より刊行されるが、発売後すぐに発売禁止となる
1944(昭和19)年 郷里茨城に疎開
戦後水戸に移り、昭和21年に日本童画会を結成し、昭和24年に東京に戻ると日本美術会に入会、昭和38年に児童出版美術家連盟の創立に参加すると、自身の画家としての活動の他、童画の研究会を開いて若い画家の育成にも務めた

1979(昭和54)年10月31日没 76歳


こちらの方に関して言えば、キンダーブックに絵筆をとられていたかどうかなどは問題ではなく、「コドモノクニ」以降、多くの童画を手掛けられた功績は、上笙一郎が1974年に『聞き書・日本児童出版美術史』をまとめるにあたり「何としても訪ねて話を聞かねばならぬ童画家のひとりだった」とする程重要な位置を占めている方でもあるのしょうが、
上笙一郎氏程の気概もなく、ただただ目に留まった挿絵画家の名前をたよりにその人となりをそれなりに調べていこうか…といった趣味人にとっては、なかなか手間取ることもあれこれ。
何と言ってもこれまでどれほどお世話になってきた国立国会図書館デジタルコレクションの検索機能が「安泰」をキーワード検索してしまうと…とんでもない数の該当がヒットしてしまい、これはもう選別など無理。…とこれを使えず。
と、なるとひと昔前のように「童画」や「児童出版」といったあたりの既成出版物から該当資料を探し出さないといけないわけで、
幸いにも上記『聞き書・日本児童出版美術史』でこのブログで必要となりそうな情報は得られたものの、写真は1972年に撮影されたというモノが掲載されているのみ。
当然ながら生前に語られ、まとめられた物でもあるので、没年月日は載っておらん。
…では、足りない情報を得るには…と調べていくと、没後の1992年に「安泰の世界」を出版する会より刊行された画集「安泰の世界」というモノがあることに気づいたのですが、これは国会図書館に所蔵されておらず…さぁて…と思ったら、神奈川近代文学館に所蔵されているではないですか。
神奈川県在住で良かった。…と、これもなんとかクリアして年譜なども確認。
ただ、「安泰の世界」の年譜では、昭和2年に日本美術学校を卒業して、「コドモノクニ」に童画を描き始めるようなっているのですが、
『聞き書・日本児童出版美術史』では昭和2年にはまだ四年になった春に先輩の推薦があって手掛けるようになったとの記載があり、
こちらの方がご本人の記憶としてもまぁ、的確なのかな…と思われたので、このブログでは上記の通り、昭和2年に「コドモノクニ」に手掛けるようになった後の昭和3年卒としてあります。
…しかし、「安泰の世界」にも戦前の若かりし頃の写真は掲載されておりません。
う~む。と、なるとやはりあの写真からトリミングしないと…いけないかな…。としたのが上に掲載した画像なのですが、

この写真の何が問題なのかと言えば、
この写真、二つの資料に掲載されていたのですが、
一つは岩岡とも枝の調査のなかで行き当たった2014年に刊行された「ビランジ」という雑誌に掲載された上笙一郎の記述された岩岡とも枝探訪記事の中にあった「『コドモノクニ』の執筆者たち」とのキャプションがついているのまではよいのですが、その脇に「1935年9月、娘を失った和田古江をなぐさめる会のとき。」とまで書かれています。
記事本文の中には「昭和期の初め、「コドモノクニ」執筆者である童話作家・童謡詩人・童画家を二十五人写したものがあるが、これを世に紹介したのはわたしであり、原影を提供して下さったのは武井武雄氏であった。」とあるのみで、名前の判然としない人物に関しては武井氏に書き入れてもらったとしながら、その武井武雄ですらその写真の中に映っていた岩岡とも枝の名前を思い出せないでいた…とつながっていき、1935年との記載こそないものの、
1935年…といえば、既に写真に写っている岡本歸一はこの世におらず、このことからもこの写真は1935年では無いのがわかるというモノ…。
そしてもう一つは、三雲祥之助を調査しているなかで見つけた1955年に発行された「週刊サンケイ」の連載企画「カメラ自叙伝」で初山滋の特集のなかで目にした同じ写真。
こちらには「大正十二年、二十七歳。「コドモノクニ」創刊当時の編集長和田古江の労をねぎらい関係者が集まった時。」とあります。
大正12年?…で、どうして昭和2年から執筆を始めた安泰が映っているのでしょう…?
そう、この写真掲載二誌とも写っている人物に名前を当てており、どちらにも「安泰」の名前があるのですが、
前出の「ビランジ」では後列の左から4番目の人物が「安泰」とされており、
後出の「週刊サンケイ」では後列の右から5番目(「3人目の武井武雄から一人おいて」との記述)になっているではないですか。
ヤレヤレ…。まぁ、不明瞭な集合写真ではありますが、後年の写真などと見比べて見ても「週刊サンケイ」の方はどうも間違いで、「ビランジ」の方が正しいと思われます。
まぁ、撮影時期が1935(昭和10)年じゃないとしても、昭和初期のモノ…ということで取り敢えず引用させていただくことにしました。
あぁ、しんどい。夏バテで仕事もしんどいというのに…。その上に台風かぁ…。ヤレヤレですなぁ…。
皆様台風にはお気をつけて。