三雲祥之助 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

…さて、キンダーブックを離れるとなると、
やはり、まだまだ多くの名前が残っている各社新聞連載小説の挿絵を手掛けてこられた方々から少しずつでも進めていかねばならないところ…といったところでしょうか。
…としたなかで、取り敢えずはコチラの方を。


三雲 祥之助 みくも しょうのすけ
1902(明治35)年7月19日
京都市上京区二条通東洞院 生

1922(大正11)年 京都帝国大学文学部史学科入学
1925(大正14)年 京都府立第一中学からの友人田近憲三に誘われ、京都帝国大学を中退して渡仏
1927(昭和2)年 サロン・ドートンヌに初入選
1935(昭和10)年 母危篤の報を受けて帰国し、第13回春陽会展に新入選
1936(昭和11)年 第11回國畫展に新入選し、翌年も入選する
1939(昭和14)年 改造社より刊行の雑誌「文藝」に連載された高見順『如何なる星の下に』の挿絵を担当
1941(昭和16)年 高見順と共に二ヶ月に渡ってジャワ及びバリ島を巡り、「文藝」 に高見順による『バタビア日記』の挿絵を手掛ける
1942(昭和17)年 大日本出版より自著『ジヤワ日記』を刊行
1943(昭和18)年 第21回春陽会展において新会員となり、また東京新聞連載の高見順『東橋新誌』の挿絵を手掛けるが、途中で富樫寅平に変更となる
1945(昭和20)年 北海道へ疎開するが、翌年に東京へ戻ると、春陽会展への出展を続け、昭和22年には日本小説社刊行の雑誌「日本小説」連載の高見順『深淵』の挿絵なども手掛け、昭和26年からは武蔵野美術学校で後進の育成にもあたった

1982(昭和57)年8月19日没 80歳


没後に刊行された美術出版社の「三雲祥之助作品集」などに掲載されている年譜などを元に、このブログ用に若干アレンジさせていただいておりますが、
「挿絵」に関しては昭和14年の高見順『如何なる星の下に』の挿絵に言及されていることはあっても、他の挿絵に関してはあまり触れられておりません。
私の調査では、まず東京新聞連載の高見順『東橋新誌』の挿絵から始まって、さて、その挿絵を担当した三雲祥之助という人は…という順であっただけに、なかなか面白い。
画像に関しては、上記「三雲祥之助作品集」などでは後年のモノは掲載されているのですが…、さて、戦前のモノとなると…。
と調べていたところ、たまたま別で目に留めておいた画像の中に映られていたのに気づきました。
と、いうのも、以前、宮尾しげをなどの資料検索している際に目に留まった「週刊サンケイ」で昭和29年から31年に連載されていた「カメラ自叙伝」という連載企画のなかで、初山滋の回があり、

その中で、古屋信子や向井潤吉などと横浜刑務所で服役中の受刑者の構外活動を見学した時の写真の中のキャプションに名前があった…と気づくことができ、
この見学会に関しては、1943(昭和18)年に矯正協会という所からの刊行されていた「刑政」という書籍のなかで『行刑鼎談』という座談会記事が掲載されており、その参加者の中に、
古屋信子、向井潤吉、初山滋らとともに三雲祥之助も並んでいることを国立国会図書館デジタルコレクションで見つけることができたので、
では、この時のモノであるとしても間違いなかろう…と。

集合写真の引き延ばしトリミングなので、画質はあまり望めないにしても、終戦前のモノとなると、あとは、
1959年の美術手帖に掲載された三宅正太郎著の「三雲祥之助--若き日の素顔と群像」という渡欧されていた頃の記事の中に掲載されていたモノ…くらいなのですが、
渡欧時頃となると、まだ挿絵なども手掛ける以前のことなので、やはり、コチラの方が…ということになります。
まぁ、この辺りに辿り着くまでがそれなりに手間もかかったりしてはいるのですが…。
ちなみに、石井鶴三をこのブログでアップした際に触れている1966年に南北社から刊行された桑原住雄 著「日本の自画像」という書籍にも三雲祥之助は取り上げられています。