繁岡鑒一 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

今回も続けて新聞連載小説の挿絵を手掛けてこられた方々のなかで、まだやれていなかったコチラの方を。


繁岡 鑒一 しげおか かんいち
1896(明治28)年9月19日
東京市浅草區七軒町 生  本名 繁岡 鑒一(けんいち)

1917(大正6)年 東京美術学校日本畫科に入学
1922(大正11)年 東京美術学校日本畫選科を卒業後、帝国ホテルのフランクロイドライト建築事務所設計部に入社し、また、日本美術院の山村耕花に師事する
1923(大正12)年 帝国ホテルの建築完成後はホテル内演芸場の嘱託として勤務し、営繕課も兼ねて、ホテル内の美術関係の仕事に携わり、また、この頃から舞台美術の仕事を始める
1927(昭和2)年 伊藤熹朔、遠山静雄、田中良、佐原包吉、小松榮らと舞臺美術協會設立し、以降数多くの舞台装置を手掛け、またこの年の年末から翌年にかけて中外商業新報連載の鈴木善太郎『夜の太陽』の挿絵を担当する
1933(昭和8)年 東臺邦畫會展に『初夏の郊外』出展
戦後は、川奈ホテルやホテルオークラなどの美術関係の仕事に携わりながら、舞台美術で活躍する

1988(昭和63)年10月13日没 92歳


まず、名前の読み方に関しては、1932年に改造社調査部 編で刊行された「最新世界人名辞典」に「かんいち」との読み方で記載されていたこともあって、
筆名の読みとして「かんいち」として、「けんいち」として活動されていたとの記載などもあったので、本名を「けんいち」とさせていただいております。
上記略年譜にある昭和2年12月から翌年8月にかけて中外商業新報に連載された鈴木善太郎『夜の太陽』の挿絵で。だいぶ前からリスト入りしていたのですが、
調べてみても他に「挿絵」的なモノはあまりなく、舞台美術関連のお仕事ばかり。なので、絵に描かれたサインなどでの名前の表記確認もできておりません。
伊藤熹朔らと同時期に土方與志の模型舞台研究所で一緒に舞台美術に関しての研鑚をされていたようですし、
そういう面からみると、出版美術に画家として与するよりも、舞台美術人として声をかけられたので、この作品を手掛けた…という流れなのかな…と言う感じで受け止められます。
となると、声をかけたのは作者の鈴木善太郎という人なのか…と、調べてみると、
永らく東京朝日新聞で記者として活躍後に小説家として独立して、後に劇作家として活躍されていた方ということを知りました。
成程、やはり劇作家の方の新聞小説連載にあたり、知遇ある美術家に声をかけた…というところだったでしょうか。
ところで、この『夜の太陽』という作品、調べていると、
昭和4年4月から台南新報という新聞と、同じ昭和4年の7月から北國新聞にも同名作品が連載されているといった記述がみつかり、連載回数はどちらも同じ229回。で、ありながら、台南新報と北國新聞の方の作者名は「東龍太郎」とされています。
新聞連載小説で、同じ回数で同じ作品名であれば、やはり同じ作品の使いまわし(…といった言い回しが適切でなく、数社共同配給だから…という考え方もないわけでも無いですが、それにしても、一年以上も間をおいての共同配信というのは…)にしても、他の作品などと対比してみても、
作品名を変えて連載することはあっても、作者名が違うというモノは見たことがありません。…これは調べてみないと…。と、こんなところにも時間をかけて、
結局は、活字こそ一部違えているものの、作品はやはり同じモノで、挿絵も繁岡鑒一のモノをそのまま使われていました。
さて、これはどうしたことなのでしょう…。鈴木善太郎がわざわざ他に泉龍太郎というペンネームで他の作品を書かれているという記載もみつかりません。
ちなみに、北國新聞に連載される直前の予告には作者紹介として「斯界の権威者泉龍太郎氏が一代の心血を注がれた近来稀な大雄篇であります」とあり、
どこの「斯界」の人なのか明記されていないことは何とも面白いところです。
蛇足ですが、
鈴木善太郎の仕事として、大正13年に金星堂刊行の「先駆藝術叢書第二編『ロボット』」カーレル・チヤベツク著の訳者というモノもあり、
現今使われている「ロボット」という造語の誕生に関して、某wikiでは、「日本では同作品の翻訳本が1923年に出版された(宇賀伊津緒訳、春秋社)が、翻訳者の宇賀はrobotを「人造人間」と訳し、タイトルも『人造人間』とした。原典のままカタカナ表記した「ロボット」が普及したのは、第二次世界大戦以降であった。」
と記載されていますが、それ以前に「ロボット」とのカタカナ表記で紹介していたのが、この鈴木善太郎だったのかぁ…と、つい、少年期にロボットアニメに感化されていた大昔に思いを馳せてしまうあたりが昭和中期生れ世代としては致し方ないところ…。

…といった余談もあり、また、肖像写真に関してもなかなか見つからなかったなか、ようやく1966年に相模書房から刊行された同じく舞台美術の遠山静雄著「舞台照明五十年」という書籍に掲載されていた
「舞台美術の会同人達(会場渋谷トンボヤ)」とされる写真に写られているのを発見し、撮影年に関しての記述こそなかったものの、伊藤熹朔が詰襟の学生服を着ていたり、土方與志の回想などと照らし合わせると、
大正12年頃なのかなぁ…と考え、まぁ、この頃の写真なら仕方ないかとトリミングして引用させていただくこととしました。

繁岡鑒一のお孫さんが管理されている繁岡ケンイチというホームページがあり、
舞台美術での仕事や、ホテル関連の仕事についてなど、勉強させていただきました。
残念ながら御連絡先が分からなかったので無断で紹介させていただいております。
※ブログアップ後、このお孫さんがこのブログの事に気がついて下さり、

ホームページリンクでの紹介についてご了解いただけましたので、「無断」ではなくなりました。(2024.6.28追記)