桐谷洗鱗 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

…キンダーブックに筆をとられた画家の方々を調べているといろいろと面白いのですが、
やはり情報収集がなかなか大変で、時間ばかりかかって四苦八苦しております。
まだまだ何十人とおられるのですが、このあたりで一度離れて他の人もやりたいなぁ…と思いつつ、
今回はコチラの方を…。


桐谷 洗鱗 きりがや せんりん
1877(明治10)年9月1日
新潟県三島郡宮本村 生  本名 桐谷 長之助

1897(明治30)年 上京し富岡永洗に学ぶ
1903(明36)年 弘文社刊の玄々子 著「妻の怨念」、沙宮郎 著「二夫婦」などの挿絵を担当する
1904(明37)年 博文館刊の巖谷小波編「世界お伽噺:指環の魔力』の挿絵を手掛け、以降、博文館刊行の「少年世界」等で口絵や挿絵を手掛ける
1905(明治38)年 師永洗の没後、橋本雅邦に就く
1907(明治40)年 東京美術学校日本畫科を卒業し、第一回文展に入選
1912(大正元)年 佛教美術研究のため渡印し、翌年帰国
1916(大正5)年 第10回文展に入選し、翌年の第11回展にも連続入選する
1917(大正6)年 二度目の渡印、アヂャンタ石窟寺など写生し、翌年帰国
1923(大正12)年 震災スケツチ画集に揮毫
1926(大正15)年 歐米を漫遊
1929(昭和4)年 三度目の渡印
1931(昭和6)年 ポーランドで開催の日本宗教藝術展に国賓待遇で渡欧
1932(昭和7)年 釋尊生誕の聖地とされるインドのサルナートに建立された寺院に壁画揮毫を文部省より依頼され、渡印準備中に病に倒れる

1932(昭和7)年7月19日没 42歳


キンダーブックには、昭和7年6月の「セカイノユウギ」に筆を取っているだけなので、「キンダーブックの画家」とするのも少し抵抗もないわけでもありませんが、何よりも調べてみると他の経歴の方が面白い。
上記略年譜の最初に記してある弘文社刊の挿絵に関しては、元の掲載書誌があるようなのですが、果して雑誌なのか、新聞連載小説なのか…。
昭和10年刊行の「書物展望」に掲載されていた斎藤昌三による「『新小説』の挿繪畫家」という一文の中には、
「第六年の前期九冊までは、表紙を當時のモダーン畫家として流行兒であつた一條成美が描き、後半を清方が描いてゐたが、挿繪の方は依然浮世繪派の着色石版で、新登場は桐谷洗鱗、松本洗耳などに過ぎなかつた。」
とあるので、このあたりなのでは…とは思っているのですが、今のところまだ確認できておりません。…明治の資料はなぁ…。
何にせよ、「新小説」の創刊が明治29年。その第六年には挿絵画家として新登場したとなると、明治34年から挿絵を手掛けるようになっていたようです。
富岡永洗との関係は単に師匠と弟子といった関係ばかりではなく、富岡永洗の妻が桐谷洗鱗の姉だったようで、つまりは義理の兄弟。
富岡永洗の遺児で、後に閨秀画家と巽画会などで活躍するようになる桐谷天香(桂子)を永洗没後に養女としており、
大正15年の歐米漫遊の際には同行させているようなのですが、そのあたりの当時記事などをみると「兄妹」みたいな書き方をされている記事もあったりして、何ともややこしい。
ちなみに、この桐谷天香も昭和4年1月に早逝されてしまわれたようです。
ときに、「桐谷」の読み方については、現今ではニュースキャスターなどもされたりしている同姓の女優さん(俳優さんとしなければいけないのでしょうか…)などを呼ぶ際の「きりたに」といった方が馴染み良いようにも感じたりもするかもしれませんが、
当時資料のルビでは「きりがや」がいくつかあって、たまに「きりや」とか「きりたに」がポツポツあるくらいで、
出生地の新潟県立近代美術館データベースでも「きりがや」とされているようなので、ここでも「ぎりがや」としました。
ついでに記載しておくと、幼名は深見長之助と、生家は深見姓だったところ、明治34年に桐谷直秀四女タキの入婿となったことで桐谷姓になったようなので、一応「本名は桐谷長之助」としてあります。
大正12年の関東大震災後の「震災スケッチ画集」に関してはスペースの関係もあって、他の方の所でも記載していたのでちょっと省略してます。
画像は「アサヒグラフ」に掲載されていた小説とその挿絵画家について調べているなかで、たまたま写真記事内に見つけたものです。