的場朝二 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

と、キンダーブックを続けるのであれば、あまり情報を得られずモヤモヤフォルダに入りっぱなしだったこちらの方もこの機にやっておきます。


的場 朝二 まとば あさじ
生年月日不詳
東京 生

1919(大正8)年 實業之日本社より刊行の「小學男生」などでコマ絵など手掛けるようになる
1921(大正10)年 日本医事新報社より刊行の「日本医事新報」に時事漫画を連載
1923(大正12)年 「少年倶楽部」「コドモ」「良友」などの雑誌で童画を手掛ける
1927(昭和2)年 「キンダーブック」の創刊より初期編集者でもあり絵画主任として参加
1928(昭和3)年 興文社より刊行された「小学生全集」の第76巻などで挿絵を担当し、この年より刊行された雑誌「平凡」でも挿絵を手掛けるようになる
1929(昭和4)年 東京毎夕新聞の連作小説『戀を喰ふ』の第36回大島万世作の挿絵を担当
1939(昭和14)年 鈴木仁成堂から刊行された「學校エホン男子家庭ノ巻 的場朝二編」が文部省推薦図書となる

没年月日不詳


こちらに関しては生没年月日とも見つけられておりません。
なので、このブログを始めるキッカケの一つである「キング」掲載の『日本挿畫壇に輝く人々』肖像写真の中にあったにも関わらずこれまでずっと出すタイミングを逸しておりました。
国立国会図書館のデジタルコレクションでいろいろな資料を目にすれば、
戦後の一時期の様子なども
1960年に聖山堂というところから刊行された西沢てる 著「新しい天地」という書籍に戦後東京世田谷に住む的場朝二の姿が少し描かれていたり、
的場朝二の息子が日活玉川撮影所で撮影監督をされたのち円谷プロで特技監督をしていた的場徹だったということがわかったり、
その子息の記述で、版画家の織田一麿と二人でよくスケッチ旅行を楽しんでいたといった記述なども目にすることができたものの、
なかなか詳細な画歴などに出会えません。
前出の藤澤龍雄のところでも触れた戦後1949年に森の子供社というところから刊行された「僕らの幼稚園」という児童向け絵雑誌の中に連載された「こども大学『母の文化講座』」という読物記事には
「後にこの方は鈴木仁成堂の専属となり絵本やいろはかるたなどを手掛ける」と、キンダーブックでの活躍後の動静に関して触れらえた記述ありますが、
はてさて、何がどうしてどうなったんでしょう…。
ちなみに「まとば あさじ」と読み仮名をあてておりますが、
これは昭和4年の東京毎夕新聞連載の連作小説を書籍化した際に「淺二」との誤植があったこともあって、
「あさじ」でいいのかな…としております。
戦後で言えば「縫いぐるみ人形の権威的場朝二氏」などという記載も目にすることもでき、
児童教育的なところでは活躍されていたようなんですけどねぇ…。
…で、ここでもこの一言。
まぁこうしてアップしておけば、もしかして誰かが目に留めて知っている情報教えてくれるかも…と、儚い希望を込めて。