伊東哲 | 襟裳屋Ameba館

襟裳屋Ameba館

訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

こちらの方を「童画家」或いは「挿絵画家」とするのはちょっと気がひけるところもありますが、
やはり「キンダーブック」に執筆されていた画家リストに名前が出て来てしまったので…。


伊東 哲 いとう さとし
1891(明治24)年2月9日
石川県河北郡花園村 生

石川県立金沢第一中学校を卒業し
1911(明治44)年 東京美術学校西洋画科に入学
1916(大正5)年 東京美術学校西洋画科を卒業し、第10回文部省美術展覧会に入選
1918(大正7)年 高島屋呉服店服飾研究部に入社
1919(大正8)年 第1回帝展で入選し、翌年の第2回帝展でも入選する
1922(大正11)年 第4回帝展入選
1926(大正15)年 第7回帝展に入選し、翌第8回帝展にも連続入選するが、出展作への批評家や画壇からの中傷や揶揄に嫌気がさして、以後中央の美術展から離れる
1928(昭和3)年 台湾の烏山頭ダム建設工事を指揮した従兄弟で土木技師の八田與一の招きで台湾に渡り、嘱託として以降三年に渡ってダム建設工事の記録画を作成
1939(昭和14)年 国立北京藝術専科学校で教鞭をとるようになる
1941(昭和16)年 キンダーブック第13集第10編にのみ揮毫童画掲載
1945(昭和20)年 北京工業専門学校教授となり終戦を迎える
戦後は、昭和21年に北京から引き揚げ、一時金沢で農業に従事するが、千葉県で美術教師の職を得て上京し、新世紀美術協会に所属して、晩年は抽象画を描いた

1979(昭和54)年4月30日没 88歳


「観察絵本:キンダーブック」に執筆されていると言っても、
実際は昭和16年に刊行された第13集第10編に一葉のみ。…まぁ、「キンダーブック」には一葉のみという方は他にもいますので、それだけなら驚くこともないのですが、
他の方のように、他誌などでは他にも童画を手掛けている…といった形跡もコチラの方に関しては見つけられず、
ましてや「挿絵」といった仕事についての記述も見つけられません。
とは言え、名前が出てきたのですからどういった画家なのか…と確認してみたところ、なかなかどうしてこれが面白い。
上記略年譜にもあるように、東京美術学校を出て、文展、帝展での入選を重ねているような方でありながら、
最後の帝展出展となった昭和2年の第8回展に出展した作品が周囲より中傷や批難を受けたことで嫌気をさして中央画壇から姿を消してしまう。
この中傷や批難めいた批評というモノについては、当時の美術雑誌などで帝展出展作品評などみることもでき、
批評家や当時の画家たちの批評と、問題の絵にまつわる女性についてのスキャンダル的な事などもネットでも調べればそれなりに見る事ができるのですが、
ここではあまりそちらに関心を持ちすぎても何だかピントがずれてしまうような感じがしたので省略してしまいます。
…というか、ホントにそんな中傷や批難めいた批評で嫌気がさした…だけで中央画壇から去る決意をしたのか…という考えすら浮かんで、そうなるともう訳がわからなくなってしまうので…。
…ともあれ、そうなると、当然のように、画家の経歴調べの頼りとなる資料からは名前も掲載されることが無くなり、
一時の竹中英太郎の「忽然と消えた画家」伝説のように以降の経歴不明となってもおしくないところ。
…だったのですが、近年(2022年)思わぬところから、その画家のその後の様子を垣間見ることのできる資料が登場していたことを見つけました。
それが、謝金魚という方の著書で台南市政府文化局から発行、北國新聞社から発売された
『1930・台湾烏山頭 水がめぐる平野の物語』という一冊の児童書です。
この書籍については近刊でもあり、世界日報という所のコチラのページでも紹介されており、
単に児童書というだけでなく、伊東哲の御家族への取材などもあって、
肖像写真はもとより、年譜などのこれまで見つけることのできなかった資料も掲載されていましたので、研究資料として引用させいただいております。
…何と言っても、これが国内からではなく、
台湾発で、それが日本語版になって手にすることができた…というのも凄いことです。
さて、そうなると、もう一つ気がかりだったのは、
唯一の「童画」となるキンダーブック掲載の作品ですが、…ふと気がつくと発表が昭和16年。
ありゃ、年譜ではその頃は北京藝術専科学校で教鞭をとっている頃じゃん。…う~む。これはもしかして別の「伊東哲」だったりするのか…。
と不安になりましたが、掲載誌である「観察絵本:キンダーブック」第13集第10編を確認すると、この号は「オトナリナカヨシ」との副題がついており、
当時の政情を考えると何ともこの場では評しがたいところもあるのですが、ようは、日本と中国の文化的なところも仲良くやれるよね…とでも言いたかったのでしょうか、
その対比などを紹介するような感じで、伊東哲畫とされる「マンジュサン」と題された一葉も、
北京郊外の「万寿山」を描いた物で、成程これなら北京に居たはずの伊東哲が描いたとしてもおかしくはない…よね。と一応納得。
しかし、中央画壇から離れて約十年。一体どういう経緯から、唯一の「童画」であるこのような作品を伊東哲が描くことになったのでしょう?
東京美術学校で同期だった寺内萬治郎や吉澤廉三郎、耳野卯三郎あたりは「キンダーブック」でも常連であったので、
こうした人達とも同期ということで何らかの繋がりが続いていのでしょうか…?その辺りに関しては、
当然の事ながら上記『1930・台湾烏山頭 水がめぐる平野の物語』には語られていません。…というか、キンダーブックの一葉にも触れられてはいないんですけどね。
と、いった訳で、およそ状況証拠的な関連でなかば強引に結び付けてしまったかのようなこの推測…普通ならこのような形でブログに掲載するのも憚れるところではあるのですが、
この機を逃しては伊東哲という画家と、『1930・台湾烏山頭 水がめぐる平野の物語』を紹介するのが難しいかな…と思い、
思い切って載せてみました。…間違ってなければ良いのですが…。
まぁ、間違いがあっても、「違うよ」といったご意見でもいただけるのであれば、それも一つの進展かもしれません。
何と言っても研究完成発表の場では無く、あくまでも研究途中のブログですから…。