山本大慈 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

大阪時事新報などで挿絵も手掛けていた方を続けます。


山本 大慈 やまもと だいじ
1908(明治41)年1月2日
福井県美浜町生  本名 山本 儀一

北野恒富門下
1927(昭和2)年 本名の山本儀一で第3回大阪市展で朝日賞を受賞
1931(昭和6)年 神戸附近在住の日本畫家によって鯉川會を創設(この頃は春邨の雅号を使用)し、後に兵庫縣美術家聯盟展日本画部に発展していく
1933(昭和8)年 大慈の号で第20回日本美術院展に初入選し、また、神戸新聞連載の藤田榮三郎『為永春水』や葉多黙太郎『あばれ菩薩』の挿絵を手掛ける
1934(昭和9)年 大阪時事新報連載の田中貢太郎『蒼龍』の挿絵を手掛けるが、作者都合で中断となり、続けて藤田榮三郎の『鶴弥南北』の挿絵を担当する
1935(昭和10)年 神戸新聞連載の平山蘆江『女夫起請』の挿絵を担当
1937(昭和12)年 神戸新聞連載の悟道軒圓玉『姐姫色懺悔』の挿絵を手掛ける
1938(昭和13)年 昭和11年に関西の院展系日本畫家中村貞以、小松均、舘岡栗山らが設立した白御會の会員となる
1939(昭和14)年 第26回日本美術院展で院友に推挙される
戦後も日本美術院で活躍し、特待無鑑査となり、日本美術院「甲辰会」の運営委員として後進の指導、育成にもあたった

1987(昭和62)年6月6日没 79歳


ずっと関西(主に神戸)を拠点にされていた方ではありますが、
戦後も長らく日本美術院でご活躍だったようなので、それとなりには資料も目にすることもできたのですが、
北野恒富門下とされながら、どういった経緯から北野恒富に入門したのか…あたりに関してはどうもわかりません。
また、ある資料では、福井から京都に出て日本画を学んだのち、北野恒富、同じ院展画家である小林古径にも師事といった記述もみられるのですが、
こちらもはてさていつのことなのやら…。北野恒富の前に師匠がいたのか、「京都に出て日本画を学んだ」のが北野恒富の元ではないのか?
雅号を変えるというのも一つ師匠が代わったといったこととも関係するのかなぁ…とも考えられなくもないのですが、
と、考えると最初に別の人について日本画を学んだ時が「春邨」で、後に北野恒富に学ぶようになった頃に大慈とした?…よくわからん。
小林古径が関西で活躍していたというのはあまり聞かないですし、かといって、山本大慈が関東に出て来ていたといった様子もないし、
…となると、山本大慈が院展に初入選した後に院展つながりから小林古径に学ぶに至る…といった感じの方がとおりがイイようにも思えるのですが…。
…かくして、「小林古径に師事」に関しては略年譜では一度外しておくことにした方がいいのかなぁ…としており、北野恒富門下も年号を付けずに冒頭に置いておく形にしております
あぁ。どうして美術関係の書籍ではこうした時系列を無視した並記が普通にまかり通っているんでしょう。
確かに、その画家たちの描き残した「作品」ということだけになれば、「時代」を残しつつも、時代とは関係なく存在し続ける物ではあるのかもしれませんが、
人の歴史となると話は別…なのではないかと思うのですが…。
因みに、出生地としております「美浜町」と、別の資料などでは「小浜市」といった記述のあるモノも目にすることもあるのですが、
福井県の地理的事情に関してそれ程詳しくないので、美浜と小浜がどういった地域的な距離があるのかよくわかりませんので、取り敢えず舊號の「春邨」と一緒に記載されていた「美浜」にしております。
…ついでにぼやいておくと、なぜか関西を拠点に活躍されていた方々の戦時の動向に関しての資料もあまり目にできないんですよねェ…。
まぁ、そんなこんなで、何とか目にすることのできた資料からの情報をかき集めて、ごまかしごまかし何とか体裁をつくろってはみたりはしているのですが…。
何か「こういった資料あるよ」と、ご教示いただくことでもあれば幸いなのですが…。