持田卓二 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

大阪時事新報関連を続けます。


持田 卓二 もちだ たくじ
1906(明治39)年5月4日
鳥取県西伯郡西伯町 生  本名 持田 卓治

米子中学校を卒業後
美術学校研究科修
富田溪仙に師事
京都高島屋呉服店の図案課を経て
大阪三越専属のデザイナーとして活躍する
1930(昭和5)年 大阪時事新報に連載されたジョージコール『百萬長者の死』の挿絵を手掛け、後に同紙で甲賀三郎『妖魔の哄笑』、亀屋原徳『女の明暗』の挿絵も担当するが、いずれも途中で他の画家に代わる 
1936(昭和11)年 中村貞以、小松均、舘岡栗山らによって設立された関西における院展中心の日本画研究会「白御會」の第一回展に出展し、また大阪で刊行された美術雑誌「美術と趣味」では創刊号よりカットなど手掛ける
1937(昭和12)年 中島菜刀、小松均、粥川伸二、山本大慈、佐野光穂らと設立した木芽會の第一回展を開催
1938(昭和13)年 第25回院展で初入選
戦後は雅号を「卓人」とし、東京に出て引き続き院展を中心に活躍しながら自ら画塾を主催し後進の育成も行った

1995(平成7)年 月 日没  歳


こちらも大阪時事新報の挿絵を調査していくなかで目に付いた方で、写真も「美術と趣味」に掲載されていた物を入手することができたので、もっとまとめることができるような気はしていたのですが、
いかんせん上記略年譜で大雑把に記載しているように中学卒業から大阪三越でデザイナーとして活躍していたあたりの具体的な年代などの詳細に関しては目ぼしい資料が見つけられておりません。
と、いうか、元は挿絵から日本画家として活躍していた人だったのかぁ…と思っていたところ、雑誌「広告界」あたりを目にしていたところ、高島屋や三越で活躍されていたことが後から判り、
おぉ、そんなこともやられていたのか…と現状判っている範囲のメモとして記載しているくらい…と思っていただけると幸いです。
「美術学校研究科修」というのも、一部では東京美術学校という記述もあったりするのですが、いかんせん東京美術学校の卒業者名簿に名前が見当たりません。
では、大阪なのか…それとも京都なのか…。いずれにせよそれらの卒業者名簿といった資料が果たしてあるのやら…。
出生地である鳥取県では、1958年に山陰日日新聞社刊行で「鳥取県大鑑」というモノが出ており、この中に「持田卓人」としての記載があるのですが、
ここには「昭和6年より院展出品院展春秋十回入選」といった記述もあり、
然し乍ら、上記略年譜に記載したように、昭和13年の第25回院展に初入選という記述が当時雑誌資料にあったりするものですから困ってしまいます。
実際昭和6年に入選されていたのか、院展関連をもっと詳しく調べてみるとあるいは出てくるのかもしれませんが、今のところ追っついておりません。
出展はしたものの、入選しなかった…などということではないですよねェ…。
没年こそ「それらしい」記述を見つけられたので取り敢えずいれてありますが、月日を含めて確認資料はみつけられていない体たらく。
まぁ、そんなこんなで、何とか目にすることのできた資料からの情報をかき集めて、ごまかしごまかし何とか体裁をつくろってはみたりはしているのですが…。
何か「こういった資料あるよ」と、ご教示いただくことでもあれば幸いなのですが…。と、前回の締めを流用してしまいます。