加藤悦郎 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

新漫画派集団の方はまだまだおられますし、
アサヒグラフの掲載小説の挿絵を持ちだせば何とか続けることもできるのですが、
それよりも気にかかった同じ北海道出身の漫画家のコチラを先に…。


加藤 悦郎 かとう えつろう
1899(明治32)年12月13日
北海道函館区宝町 生

1911(明治44)年 小樽に移り、大正3年に小樽区手宮小学校高等科を卒業
1917(大正6)年 小樽新聞社に入社し、翌年漫画記者見習となる
1921(大正10)年 北海タイムス社に入社
1926(大正15)年 日本漫画家聯盟北海道支部長となる
1930(昭和5)年 プロレタリア美術同盟の札幌支部を結成し、シンパとなる
1932(昭和7)年 上京し、柳瀬正夢の紹介で読売新聞の嘱託となり、漫画や挿絵を手掛けるが翌年退社
1934(昭和9)年 小野佐世男、安本亮一、吉田貫三郎、志村和夫らと「カリカチュアクラブ」を結成するも一ヶ月で分裂し、「ユーモリストクラブ」を設立するが、これも昭和11年には退会して「マンガアトリエ」をつくる
1940(昭和15)年 新日本漫画協会創設に参加するが、機関誌「漫画」に掲載した漫画が会員内より批判をうけ脱会
1941(昭和16)年 安本亮一、岸丈夫らと建設漫画会を設立
1943(昭和18)年 日本産業報国会の漫画担当となる
戦後は昭和23年に日本共産党に入党し、関連紙などで漫画を手掛けた

1959(昭和34)年6月6日没 59歳


画像は没後の昭和35年にに刊行された「加藤悦郎漫画集」より引用させていただいたもので、後年のモノでしょうか。
同じ函館生れである小山内龍は「函館ゆかりの人物伝 函館市文化・スポーツ振興財団」というHPでも紹介されていながら、
加藤悦郎に関しては…。…ま、その辺りはコチラのあずかり知らないところではあるのですが…。
まぁ、どうしても昭和30年代以降の生れであれば、似た名前でテレビでも活躍されていた同じ漫画家の加藤芳郎という方の方が印象に残っていることもあって、
加藤悦郎という名前をみても、「?」と思うところなのかもしれませんが、
このブログで振り返らせていただいている大正から昭和終戦前まであたり時代でいえば、
加藤芳郎のデビューこそこの時期の後半ですが、それ以前でいえば漫画で加藤といえばは悦郎と思ってもおかしくないくらい人気あった方のようです。
やはり日本漫画聯盟あたりからの知遇のあった松山文雄も、自身が昭和7年に投獄されて昭和10年に出獄した頃には「東京ではなばなしく活躍している加藤君にあった」と改述されているくらいです。
…で、ありながら、現今あまり振り返られることのないのは、
「近藤日出造の世界」の著者でもあり、当時雑誌編集などもされていた峯島正行の記述などにもみられる当時の思想的な変節などに絡んでのことなのでしょうか…。
…でも、当時思想的な転換を余儀なくされて「日和った」人など少なからずいたでしょう…。
それに、昭和15年の新日本漫画協会創設に関しても、峯島正行の近藤日出造を通しての記述では、その機関紙「漫画」の刊行に際していかに近藤日出造が尽力していたかと、加藤悦郎の脱会エピソードあたりの書かれ方からみると、その思い入れの違いが感じられなくもありませんが、
かたや、昭和17年(もしかしたら18年?)に内務省警保局編で刊行された「社会運動の状況 〔第16〕」の中にある『左翼的文化運動』の章では、
新日本漫画協会創設に関して「「國防漫畫聯盟を主宰する川原久仁於は、七月上旬新鋭漫畫派集團の杉柾夫、南義郎等と~」と始まり、近藤日出造をはじめ新漫画派集団の面々の参加は主というより声をかけられて…といった感じでの書かれ方になっている…。
う~む。同じ事柄の記述でありながら、見方、受け止め方というのは、どの立場から見るかで違ってくる…ということなのでしょうか。
そう考えると峯島正行のちょっと攻撃的になってやしないかと思えるような加藤悦郎に対しての記述(インターネットでも文源堂さんの「Web遊歩道」にある『私の手塚治虫』で読むことができます)に関しても、
ちょっと待って…と、一歩引いて見ても良いのでは…と思ってしまえるあたりが面白い。
と、ただただ面白がっているわけにもいかず、さぁて、「漫画家」の方の「挿絵」を確認しないとなぁ…と思わなくもなかったのですが、
いわゆる当時の「ユーモア小説」を全部確認するのも今のところままならず、現状は「この挿絵」と提示できていないのも…いいのか?こんなことで…。と思わなくもないのですが、
たぶんあるでしょう…。きっと。…。
…イイんです。趣味のブログだし。