小山内龍 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

…いやいやいやいや。
三十年(!!)近く連れ添ってきた愛車とお別れしなければならなくなりまして、
そんなこんなの手続きやら何やらで、ちょっとブログ更新も覚束なくなってしまっておりましたが、
またぞろ、ボチボチと進めていきたいと思います…。


小山内 龍 おさない りゅう
1904(明治37)年6月11日
北海道函館市大縄町 生  本名 澤田 鐵三郎

1919(大正8)年 若松尋常高等小学校を卒業後、下駄屋に奉公に出る
1921(大正10)年 外国航路の貨物船の船員となって各地を転々とする
1926(大正15)年 心臓発作で船を降り、東京で転々と職を変えながら独学で絵の勉強を始め、アナキストの運動にも参加するようになる
1931(昭和6)年 アサヒグラフの懸賞漫画に入選 朝日新聞社から児童文学賞を受け、漫画家としてデビュー
1932(昭和7)年 杉浦幸雄、近藤日出造、横山隆一らの設立した新漫畫派集團に入団し、アサヒグラフなどで漫画を手掛けながら、翌年にかけて矢田津世子『長坂君の日記』、眞杉靜枝『アンナの畫像』、北川千代『正平の恐怖』といった読切短編小説の挿絵なども手掛ける
1935(昭和10)年 アトリエ社刊行の現代ユーモア小説全集の第9巻で挿絵を担当
1936(昭和11)年 コドモノクニに漫画や童画を手掛けるようになる
1933(昭和13)年 サンデー毎日11月1日号に掲載された松山進一『青春パタヤ日記』などの挿絵を手掛ける
昭和20年4月の空襲で東京の家を焼失し、7月に家族を引ぎ連れて北海道大野町に疎開するが、持病の心臓病が悪化して病没

1946(昭和21)年11月1日没 42歳


新漫画派集団創設後に加入された方ではありますが、横山隆一も近藤日出造もその才能には高い評価を後年語られており、
漫画家としては当時の風潮としてアナキスト的な活動などもされていたり、当時の表現では“無産階級”といった言葉で表現されているような向きもあったりもしますが、
「澤田哲」といった筆名での文筆などもある…といった記述なども見受けられたりといろいろと興味深い方ではあるのですが、
プロレタリア関係についてはまだまだ勉強不足であること否めませんので、ここでは多くを語ることはできませんし、
いかんせん早くになくなられてしまったことが、現今あまり見直されることもなくなってしまっているのかもしれません。
そんな中でも
生誕地函館では、「函館ゆかりの人物伝 函館市文化・スポーツ振興財団」というHPや
小山内龍の足跡 大野文化財保護研究会」といったHPで略年譜など情報提示してくださっているのは大変ありがたいです。
因みに、画像は前出「近藤日出造の世界」に掲載されていた昭和13年の満洲旅行の際の写真からトリミングさせていただいたモノです。
昭和6年の懸賞漫画については、一部ネット情報では「週刊朝日の懸賞漫画」との記述も見受けられるので、
さて、実際のところは…と確認しようとしたのですが、
近江幸雄氏の「小山内龍:北の絵本作家」という著書でも取り上げられているにも関わらず、アサヒグラフに「懸賞漫画」の受賞発表は実見できておらず、週刊朝日もまだ未確認なので…ハテサテ、この「懸賞漫画」がどういったモノなのか…。
現状未確認ではありますが、まぁ、「マンガ」のことなので、ここではあまりこだわり過ぎず、上記HPの略年譜を参照させていただいた…としておきましょう。
後年熱をいれられていた昆虫漫画などについても、“漫画”ということで、なかなかおもしろかったのですがこのブログではちょっと略。
…あまり“漫画”方面に熱をいれてやりすぎても、他の“挿絵”画家のこともやらないと…という思いもありますので、
こんなところで一先ず良しとしておきましょう。