清水七太郎 | 襟裳屋Ameba館

襟裳屋Ameba館

訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

ではでは…また何時更新が難しくなったりするやもしれぬようなことの無いように、
やれる内にモヤモヤが残っていてもやれる人をやっておきますか…。


清水 七太郎 しみず しちたろう
1889(明治22)年3月18日
岩手県南岩手郡仁王村本町 生

1906(明治39)年 前年設立された岩手初の美術団体彩友会の第2回展に出品
1911(明治44)年 岩手では最初の洋画団体北虹会の第2回展に出品
1912(明治45)年 上京して東京美術学校西に入学
1917(大正6)年 東京美術学校西洋畫科卒業
1919(大正8)年 目白中学校に美術教師として赴任し、「赤い鳥」社から刊行された「『赤い鳥』童謡」の第1集から大正12年刊行の第7集まで、勤務していた目白中学校の生徒に童謡に添える作品を描かせた中から選んで挿絵とした
1926(大正15)年 第4回春陽会展に出品、後に圓鳥會同人となる
1933(昭和8)年 國民新聞連載の畑耕一『血吻十字路』の挿絵を手掛ける
1934(昭和9)年 文化裁縫女学校の教授となり服飾美学、デザインなどを教える
1936(昭和11)年 文化裁縫女学校が文化服装学院と名称を改め、その出版部より刊行された「装苑」に『日常生活とデザイン』を連載し、また自由美術家協会会員となる
1938(昭和13)年 海軍省嘱託派遣として中支・北支に赴く
戦後も文化服装学園で後進の育成に務め、昭和39年に長女の住むブラジルに移住

1967(昭和42)年 月 日没 78歳

晩年、異国に移住され、その地で亡くなられたこともあってか、没年はともかく月日までが確認できておりません。
生誕地岩手県盛岡市では、そのHPで「盛岡の先人たち」として紹介されてもいる方ではあるのですが、
同郷となる萬鐵五郎と関係や岩手県の美術関連などには触れられていても、文化裁縫女学校のことや、ましては挿絵などについてはあまり触れられておらず(まぁ仕方ないかもしれませんが…)、
とは言え、他にあまり資料も…といった状況という意味では、やはり少なからずモヤモヤもないこともなく、
まぁ、取り敢えずはこんなところで、良しとしておくしかないのかもしれません。