武藤夜舟 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

このところ、ずっとこのブログでぼやいている「モヤモヤしている」方と、
これまでも多くの情報があまり得られないままブログアップしている方との違いは何か…と自問してみると、
まぁ、これくらいしか情報得られないのかもしれないなぁ…と、半ば諦め半分の方が後者。
もう少しどこかに資料があるのではないか…と思いながらもそうした資料に出会えていない…資料を見つけることのできない未熟さ…が、モヤモヤになっているような気がします。
そういった意味で言えば、コチラもモヤモヤ組になります。


武藤 夜舟 むとう やしゅう
1893(明治25)年1月1日
東京 生  本名 武藤 當次郎

1910(明治43)年 陸軍士官候補生として第一師団歩兵第三聯隊に採用される
1913(大正2)年 陸軍士官学校第25期卒業し少尉となる
1922(大正11)年 東京外国語学校西語学科修了
1925(大正14)年 陸軍大尉に昇進
1930(昭和5)年 歩兵第三聯隊から除隊するも、陸軍省新聞班歩兵大尉となり、春の聖徳太子奉讃展に『露營』を出展、同年秋の第11回帝展に出展した『落鐡』が初入選する
1932(昭和7)年 第19回光風會展に特別陳列として櫻井嘉吉少佐、鶴田吾郎、松田文雄諸氏らと満洲、上海事変スケッチを出陳し、また、時事新報連載の直木三十五『上海と戦争』の挿絵や「主婦の友」に掲載された『戰地の人情美談』など手掛ける
1933(昭和8)年 現役を退き、予備役陸軍少佐として絵畫報國を提唱し、巧芸社より自著「熱河絵行脚」を刊行
1934(昭和9)年 南越社より自著「絵筆の従軍」を刊行
1938(昭和13)年 第二国民会出版部より自著「北支戦線陣中手記」を刊行
1939(昭和14)年 報知新聞の正午版に連載された本山荻舟『南海大将軍』の挿絵を手掛け、以降も多くの戦争画を描く

1974(昭和49)年11月6日没 81歳

当時は「軍事画家」として活躍されておられ、あちこちの雑誌、書籍でも軍籍階級付で名前が掲載されているあたりが何とも時代を感じるところではあります。
戦後は、さすがに年齢もあるのでしょうがこういった経歴もあってか、あまり表舞台での活躍は残されておられないようですが、
後年、所謂「戦争画」などについて振り返られる関連書籍などでも良く目にすることのある方でもあります。
時に、この方の画歴に関しては、1934(昭和9)年に刊行された美術雑誌「白日」に掲載されていた記事で、
「玉章 百穂門」とあり、「百穂」の方は上記略年譜にも記したように昭和8年の白田舎展への出展記録もあったので、
おそらく予備役となり平福百穂門を叩いてもう少し日本画を学ぼうか…といったところなのかと思うところではあるのですが、
その前の「玉章」の方となると…おそらく川端玉章のことで間違いないとは思うので、川端画学校で学んでいたと解釈することも可能なのですが、
はてさて、陸軍士官学校に入学する前のことなのでしょうか…?このあたりがよくわかりません。さすがに大正初期の資料となるとなぁ…。
まぁ、このブログでは、新聞連載小説の挿絵を手掛けていた方々を取り敢えず紹介することができればイイのだから、多少…否、多々不備があっても、それなりであればヨシとする開き直りも致し方なし。